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木曽川橋巡り

朝イチ仕事が終わってから各務原市あたりの木曽川沿いを走ってお城巡りしてきました。
ザックリした計画で出発したので、全然一筆書きに回れず、何度もいろんな橋をわたる事になってしまって、なんだか橋巡りになってしまいましたが、オマケがついてきました⭐️

橋があるところには、渡船場跡の史跡標柱がほとんど立ってます。

渡橋のたもと、亘利城南の木曽川わたり渡船場
付近は河原石で積み上げられた上に民家が並んで輪中のようでした。


木曽川の流れはすごく変化しているだろうに、渡河しやすい川の流れがゆるやかな地点や、川幅が狭い地点は古今あまり変化ないのでしょうか。今に至ってもその場所に橋が架かっているんですね。
当たり前かもしれないんですが、まず(へぇ〜)と感心してしまいました。

と同時にそうした渡河地点は軍用になったようで、木曽川河田渡船場は関ヶ原前哨戦の河田木曽川渡河の戦い、米野の戦いの戦場近くにも渡船場(手斧猿尾という堤防の近く)がありました。

木曽川河田渡船場
河田木曽川渡河の戦いはこの辺りだそうです。

また訪れたお城の近くには大抵橋が架かっており、渡船場跡の碑がありました。水運を抑えてる豪族のお城が多いんですね。

松倉城近くの木曽川松倉渡船場
城主の坪内氏が開いた渡船場だそうです。


その一つの亘利城の城主の弟、松原内匠は墨俣城の大工総棟梁だったそうです。川並衆の頭領蜂須賀小六のもとで矢とか弾丸飛び交う中、築城したのかなあ〜と想像してしまいます。

亘利城趾
川の流れのように時勢を見極め、土岐氏、斉藤氏、織田氏‥と主を変えたそう。

この辺りの関ヶ原合戦前哨戦は‥
8月14日には清洲城に着いた東軍。

岐阜城攻めは二手に分かれ、21日に河田組と、起(岐阜県羽島市)組に分かれて進軍。
河田組は池田輝政、浅野幸長、山内一豊(池田、山内さんは土地勘ありそう)

(河田木曽川渡河の戦い)
木曽川を渡らせないと攻撃してくる岐阜城方VS迎え撃ちながら木曽川を渡る東軍。東軍が岐阜城寄りの米野まで岐阜方を押しやる。

(米野の戦い)は木曽川を渡った東軍VS岐阜方。2時間で決着がつき岐阜方は岐阜城へ退散。大垣に援軍を求めます。
この戦いを攻略した河田組の池田輝政らは越組の福島正則らの軍と合流し、8月23日岐阜城を攻めます。
東軍の渡河地点を断定しきれなかった織田秀信が、兵を分散させすぎたとも言われます。戦には決断力も地形を制するとこも必要みたいですね。

米野の戦い跡の案内板。
関ヶ原古戦場などに点在するやつ、ここにもあったのね

ちなみに越組は福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎(すごいメンバーや〜💦後でまた二つに分かれますが)
美濃路を通って越の渡しで木曽川を越えようとしましたが、対岸から西軍の加賀野井城の者たちが鉄砲を撃ち掛けてくるので渡れず、少し下流の加賀野井の渡しへ移動し密かに木曽川を渡ります。
城主留守の加賀野井城、竹ヶ鼻城を攻め落としながら進軍。

ミニトリップでしたが勉強になりました。朝のニュースで今日は3K(乾燥、強風、花粉)です、と言ってだけど、やっぱり川沿いは殊更に‥って感じでした💦プラス、寒かったです。


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