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関ヶ原古戦場巡り(東軍編)
11月末にお父さんと関ヶ原古戦場巡りをしてきました。西軍、東軍、反応軍、傍観軍で紹介できたらと思います。(東軍編です)
関ヶ原には、古代から不破関という名の関所がおかれていました。関ヶ原は、中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にあたり交通、戦略の要衝でもありました。
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家康が美濃赤坂に着陣すると、三成は主力軍を大垣城から関ヶ原に移動させました。
その頃、大垣と関ヶ原の中間に位置する南宮山にも毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・長束正家らが率いる大軍が入ってきます。
一方、西軍の動きを知った家康は、家康直属の本隊や、豊臣恩顧の福島正則・黒田長政らの軍などを関ヶ原へ移動させます。
はじめの布陣。
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関ヶ原という四方を山に囲まれた低地の中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している形でした。
後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校が
見た瞬間に
(西軍必勝!)と叫んだそうです。
現実はその通りにはなりませんでしたが。
そして、家康の本隊はいつでも退却可能な桃配山に布陣しました。
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午前8時ころ、雨があがり霧が晴れます。
このとき、家康の家臣井伊直政が西軍宇喜多秀家の陣を銃撃・合戦の火蓋が切って落とされました。
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娘婿の家康四男松平忠吉と共に西軍に対し最初に発砲した。
(ホントは先鋒を任されてた)東軍の福島正則と、西軍の 宇喜多秀家 の軍勢が戦闘に入ります。
進撃する東軍を西軍は陣地で迎え撃つなど、緒戦は西軍有利で進みました。
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前哨戦の岐阜城攻めでも戦功をあげる。
宇喜多隊と激闘。
その後、石田三成の本隊に東軍の 黒田長政、細川忠興などの部隊が攻撃を開始します。
石田三成の本陣の前には島左近が立ち塞がっていました。
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黒田長政、ご存知軍師官兵衛の子です。
黒田官兵衛は、荒木村重の反乱で織田方として有岡城に交渉にいき、そのまま有岡城の牢に閉じ込められてしまいます。織田家の人質であった少年長政は竹中半兵衛に保護されていました。(う〜、伊丹市出身として、申し訳ない💦)竹中半兵衛の薫陶もうけただろうし、半兵衛の子、重門とも幼馴染‥だと言います。関ヶ原でも仲良く?共闘したんやね。
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三成の布陣する笹尾山への攻撃を繰り返し
東軍勝利に貢献。
竹中家の領国である南宮山の北あたりには長政ゆかりの地も多く残っていますが、長政は関ヶ原辺りの地形も知り尽くしていて、庭みたいなもんだったともいいます。黒田長政、竹中重門は関ヶ原断層による隠れ道から島左近を狙撃しました。
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石田三成にとって、最も頼りにしていた武将の1人である島左近が、開戦早々に戦闘不能になってしまったのは大誤算。
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たくさんの首級を上げた。
それでも、小西行長、大谷吉継の部隊もそれぞれ前面に迫る敵勢を迎え、一進一退の攻防を繰り広げました。開戦から2時間を過ぎたころ、三成は狼煙を上げ、参戦していない武将に加勢を促します。
その後‥
これまでのもよかったら見てください。
https://note.com/good5_/n/n5b8c34762d96?sub_rt=share_b
https://note.com/good5_/n/neaf31d4daf4b?sub_rt=share_b
当初、東軍9万対西軍8万と、やや拮抗していた兵力も、こうした諸隊の裏切りや傍観が相次いだ結果、東軍12万対西軍3万という圧倒的な差がつき、やはりこれが勝敗に直結しました。
家康本隊は正午頃、小早川秀秋隊が寝返ってから主戦場へゆっくりと前進しました。つまりほぼ余力を残したまま天下分け目の一戦に勝利しました。圧勝とは言いたくないけど、うーん、圧勝ですね。
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東海道軍の軍艦を務める。
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関ヶ原古戦場記念館の隣です。
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こう見ると、家康さんは、慌てず、動じず、自分が戦いやすいように駒を進めたように見えます。
最後に関ヶ原古戦場記念館に行きました。良い総括になったと思います。
上手にまとめられませんでしたが、行って見て散策すると、高低差や臨場感が味わえて良いので、現地にも足をお運びください☺️
また今後研究がすすんだり、文書が発見されたりして、もっと詳しくわかるといいな。
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江戸時代末の関ヶ原宿本陣の主・古山兵四郎が、合戦の地であることが、忘れられることを危惧して作ったそう。