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伊賀市のお城巡り(第二次天正伊賀の乱の緒戦の城編)


三重県伊賀市のお城巡りをしてきました。
まずは掛田城とそこから尾根つながりの城氏城に行ってきました
☺️
掛田城は伊賀衆VS織田軍・天正伊賀の乱の舞台となったお城です。天正伊賀の乱は第一次と第二次がありますが、両方の舞台になっています💦

伊賀国について

古代から中世にかけて、伊賀国は大和国・東大寺の荘園でしたが、応仁の乱の頃には土豪が力を付け、東大寺と争うようになります。

戦国時代に入ると土豪が協力し合い伊賀惣国一揆を結成します。一揆は軍事組織のようなもので、掟もありました。
どんなのがあるかというと、

・他国が攻めて来た場合は、国全体で防衛する。
17歳から50歳までの男は戦に参加すること。戦が長期に及ぶ場合は、チームを編成して交代しながら戦に備える。
・他国の侵入を手引きしたり、内通したりした者は討伐し、領地を没収する。
など。
うーん、なんか厳しそうやな💦
そんなかんじでほぼ独立していたんですね。

けど、やっぱり伊賀国は地理的に要所であり、この伊賀惣国一揆を、信長次男の北畠信雄(以下織田信雄)が抑えようとしたとこから天正伊賀の乱が起こっています。

第一次天正伊賀の乱

織田信雄は北畠具教が築いていた丸山城を改修しようとしていますが、
(こんなとこにゴッツイの建てられてたまるか)
伊賀衆に妨害、攻められ敗走します。
過去の記事。
https://note.com/good5_/n/nf541e5486a9e?sub_rt=share_b

信雄は独断で動き負けてしまったことを織田信長へ報告することなく、再度攻略を開始。
長野峠から信雄軍8,000ほど、鬼瘤峠から柘植保重軍1,500ほど、青山峠からも1,300ほど、計10,000余りの兵で攻めこみます。
それに対して、伊賀側も抗戦。人数に劣る伊賀側でしたが、平地でまともに戦うのを避けて、山陰から弓や鉄砲を使った攻撃や、夜襲を仕掛けるなど、各地でゲリラ戦を展開して勝利を収めました。
この戦で、重臣柘植保重が戦死してしまい、結局信雄は撤退することになります。

掛田城にも1500程の軍勢が侵攻してきますが、ゲリラ戦などで撃退しています👏

第一次天正伊賀の乱は、信長に(親子の縁を切る💢)とまで言われた手痛い敗戦でした。

2年後
第二次天正伊賀の乱

安土城の大広間に旗下の諸将を参集させた信長は
(かねて伊賀の凶徒共は余の天下布武の大志をさまたげたるばかりか、常々より驕奢を極め無道の沙汰を改めぬ振舞は誠に奇怪至極であり、今度こそは断呼討滅する。
 凡そ僧俗、男女の区別なくすべて些でも抗する者はなで斬りにし、一人も容赦するべからず。全土を焼き払い天下にその酬いを示せ!)
 と出陣を令します。怖〜。その数5万、一説には10万ですよ〜💦
他の合戦で比較すると、
・姉川合戦1万3千〜4万
・長篠設楽原合戦3万8千〜7万2千
伊賀衆相手ですよ〜💦しかも丹羽長秀や堀秀政、蒲生氏郷なども加わったすごいメンバーです。

前線の掛田城は、織田信雄、滝川雄利、織田信澄ら1万にて包囲され、伊賀全土が壊滅する幕開けとなった城になりました💦
情報網の発達した伊賀衆のことですから、きっとこの掛田城も大軍に供えて改修をしたのでしょう。
でも怒涛の大軍と火器の前には流石にゲリラ戦も通用せず、城主富増伊予は討死したとも、落ち延びたとも。
前線を任される猛者。落ち延びて転戦したんじゃないかな。

伊賀や甲賀のまあまあメジャーなお城にはこの案内板が建ててあります!


案の定、大軍を相手に、1次と同様に伊賀側はゲリラ戦を繰り広げますが、大軍相手にはゲリラ戦は通用せず、ひと月足らずで伊賀側は、壊滅に追いやられました。
お城のみならず寺社も焼き払われ伊賀全土は焦土となり、人口も激減するほどだったそうです。
堀秀政の方面軍のみは無抵抗のエリアは素通りしたと言われていますね。

こんなところから登っていきます!ニンニン。

お城はこの地方に多い方形単郭なんですが、ミニ方形単郭が一つの隅にくっついたような形の、穴蔵式になっている櫓台があります。
(わあ、珍しい〜)面白いです。

主郭の虎口。分厚い土塁。


ここで作戦を練ったんだろうか、ここに武器が集められていたのかな。

穴蔵式の櫓台跡。すごく立派です。土塁は石で補強されています。


また武者隠しや複雑な虎口があります。

武者隠しっぽい穴がいろんなところにあります。ゲリラ戦で潜んでいたのかな。


進みたくない感じの土橋。


主郭背後の堀切。


主郭櫓台跡の隅っこに祠。


山上郭には茶丸神社。見張り台だったのかな。神社の裏にも土塁と堀切。


このお城でなんとが前回のように敵を撃退したかった思いを感じます。
合戦後は破城(わざと城を使えなくする)も行われているとされていて、複雑な縄張りがさらに難解になっています。
山上にも郭があり、神社があります。今はお城を経なくても神社へ行ける道があり、整備されています。

さて、尾根繋がりの城氏城へも足を伸ばしました。尾根繋がりの高所なので、当然合戦時は物見台であったり、出丸的な役割をになったのかな、と思います。

すごく重厚な虎口。上から読んでも城氏城。



櫓台跡の土塁の内側には石積みがあります。下から読んでも城氏城。


井戸跡もあります。


ここも櫓台が個性的だし、井戸跡もありオススメです。小さなお稲荷があり、そのあたりは整備されています。

にぶーい私ですが、流石に胸がザラザラした気持ちになりつつ、この2城を後にしました。

緒戦はこのお城から始まり、伊賀全土で展開されましたが、最終的には比自山城柏原城で終結しています。
この二城では伊賀衆もただやられるだけではなく、籠城し善戦しています。
結局、奈良の猿楽師が和睦の仲介に入り、伊賀側は開城したそうです。
どっちにも顔が効くって何者なんですか、この猿楽師💦

柏原城はブラタモリでタモさんも来てた整備された気持ち良いお城です。おすすめです。
一方、比自山城は最高に濃密な薮で探索困難と言われていて、ここの攻略は私の今年の目標の一つです
💪春までに行かなきゃ。

後編に続きます。


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