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岐阜城に行ってきました。
昨日は朝イチの仕事の後、岐阜城の水の手道〜山上〜南西の砦を回り、関ヶ原合戦前哨戦(岐阜城の戦い)をちょっと辿ってきました。
実は仕事の後、そこから近い豊田市のお城に行こうと下調べしていて、そっち方面に向かっていたのですが、人身事故があり電車が急に停まりました。
関西の実家にいた学生時代に、九年間電車通学していましたが、人身事故で電車が停まった記憶がなくて‥(ただ自分が若くて、そんなことも気にしてなかったのかもしれませんねー💦)
はじめは名古屋は多いのかなあ、と思っていましたが、年々増えているような気もします‥
ホーム柵をどんどんつけるのも鉄道会社が大変だろうとは思いますが、昨日もホーム柵のない駅との事で、やはり抑止力にはなるのでしょうね。
(帰宅してゆっくりオフロでも入るか‥)とも思いましたが、方向転換・急遽変更・プランBで行ってきました💦
岐阜城にはこれまでいろんな登山道から登り降りしていますが、noterさんの記事をみてまた行きたくなってたところだったので☺️
さて‥岐阜城は北東は天然の堀的な長良川があり、南西側の山が連なっているピークには砦がたくさんありました。城下は総構があったことが絵図にも書かれています。
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関ヶ原合戦の前哨戦で、織田信長の孫・秀信は西軍に与して戦いました。
もともと秀信は家康に従って会津征伐に出陣する予定でしたが、出発が間に合わなかったといわれています。その後、石田三成から美濃・尾張の2ヵ国を与えると条件を提示され、西軍に与したんだそうです。
織田秀信は自身と弟・秀則が岐阜城に入り、岐阜城南西の砦やいくつかの登山口に兵を分散したそうですが、東軍多勢に個々撃破されて山上の岐阜城へと迫られた展開です。
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砦兵も奮闘、武藤峠(激戦地)の木造具政などは4度も押し返し、山上へ敵軍が侵入するのを防ごうとしたそうですし、本丸からも焙烙玉で攻撃があったそうです。
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秀信は大垣城の石田三成や犬山城からの援軍により挟み撃ちできると思っていたのかもしれませんが、落城寸前の岐阜城に、援軍はやって来ませんでした。
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ぎりぎりまで秀信は抵抗し、最期は自害しようとしますが、福島正則や家臣らの説得により思い止まったそうです。秀信は一命を助けられた後、高野山に上り、22歳で没しました。
秀信さん、信長の孫なのに、岐阜城の戦いやそれまでの渡河の合戦でも兵を分散させすぎたり、戦下手で残念なイメージがありますが、じっくり回って読み解いてみると、それぞれの砦や登城口、本丸でもよい抗戦が見られ、それを指揮したのは素晴らしいかな、と思います。相手は歴戦の猛者ばっかり(池田輝政、福島正則、山内一豊、藤堂高虎、田中吉政など)で、秀信はとても若いのに、よく健闘したと感じました。もう少し評価してあげてもいいのにな、と正直思う!
岐阜城公園からは大手道の水の手道を登りました。
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関ヶ原前哨戦の岐阜城攻めは、元岐阜城主で地形に精通した池田輝政が水の手道から攻め上ったとされてましたが、最近の研究では当時の書状及び合戦参加者の後日談、池田家家臣の武功集でも確認できず、後世の創作とされる可能性が高いとのことです。
水の手道は馬の背道ほどではないけれどちょっと険しく、沢が山上近くにまであります。
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山上はホントに手狭で合戦なんかできないよ〜、っていう感じです。
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山上から七曲り登山道を下り、激戦地・武藤峠をすぎ、金華山ドライブウェイを歩きました。ちょっとした山があると山頂が砦になっているようで、砦はたくさんあるようでした。
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全部回れなかったですが、面白かったです☺️また他の砦も回りたいです。
この合戦で健闘し生き残った各砦の守将は、東軍の将に再就職で迎えられてる方が多いとのことで、なんだか拍手したくなりました☺️
それにそこにも東軍の余裕が見え隠れしますね‥