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三重県の長野氏城に行ってきました。

昨日は早朝おばあちゃんの畑を手伝った後、津市の長野氏城(長野城、居館跡の東の城、中の城、西の城)へ行ってきました。源頼朝の御家人・工藤祐経の子孫が伊勢の長野に住んで長野工藤氏を名乗ったのが伊勢の長野氏の始まりだそうです。

美里ふるさと資料館の展示。解説もしてくださりました☺️

戦国時代前は中勢を支配し、分家の分部氏、家所氏、細野氏、雲林院氏などの一族を各地に配していました。実は私、ほとんどの一族のお城には行ったことがあるのですが、一番標高も高くて奥地とも言える長野城がまだ行けてませんでした💦他の長野氏一族のお城は虎口以外の三方向の土塁が高くて分厚いんだけど、ここはどうかな?

戦国時代には長野氏は北畠具教に半分乗っ取られた形になっていましたが、織田信長の弟・信包が養子に入って、結果長野氏は滅亡してしまいました。
長野城は、標高540mで伊勢街道からも6キロ以上奥まった山中、天然の要害で周囲が切り立っています。

主郭東下から切岸を見上げます。キレッキレ。


眺望がとても良く、今日は少し霞んでいましたが、中勢から伊勢湾がよく見渡せました。

南側に帯曲輪が連なり、伊勢湾まで見渡せます。


南北朝や室町時代期のシンプルなお城の姿という感じで、きっとそんなに戦国期に改修をしてなさそう、と思いました。

とはいえ、堀切もあります!


竪堀もあります。


織田信包は上野にある支城・伊勢上野城(分部氏のお城)に住んだと言われていますが、まあ、気持ちはわかる気がします💦ちなみに分部氏は織田家にうまくついて生き残ってます。伊勢上野城は小谷城から保護されたお市さんと三姉妹が暮らしていたお城とされ、分部氏もお世話をしたとか。近くに沙羅双樹のたくさん生えているいい感じのお寺があります☺️


さて、長野氏城までは行きは林道(5キロほど)帰りは山道(3キロほど)で下りました。林道は瀬戸林道から高狭ケ野線へ曲がって登っていきます。瀬戸林道は車両通行止めの柵が横に退かせてありましたが、すごく派手な落石があります。 

軽も通れなさそうに思うけど‥


途中普通車でこられてるバードウォッチャーの方がおられました。普通車で来れるんだ‥。川沿いに進んできた林道と別れ、高狭ケ野林道を登ります。ここは入り口からガッツリ車両通行止めの柵がしてあります。

こちらの林道の方がすごく荒れています。オフロードバイクも無理かも‥


この林道を2キロほど進むと長野城です。

林道の横に滝もあります。


風力発電のある青山高原も見えます。


林道は城域の西に着きます。いきなり堀切二本。城趾は主郭に帯曲輪が取り巻くシンプルな構造ですが、地形によるものもあってか周囲は切り立っています。長野氏のお城の特徴かな?と勝手に決めつけていた三方の土塁はありませんでした〜。

ごくごく低土塁な主郭。でも広いです。


この日は少し霞んでいましたが、津市や伊勢湾がよく望めます。下山は城の登城道であったとされる道で南東麓へ降りてゆけます。鉄塔の保守の道にもされているため、道は悪くなかったです☺️


伊勢街道に面している交通の要衝にある西、中、東の城と三つの小山に築かれており、こちらもシンプルですが面白かったです。山麓には居館跡もあったようです。

中の城。土塁高い!


東の城。主郭から段郭を見下ろす。


西の城帯曲輪から主郭を見上げる。防獣ネットがあって入っちゃだめみたい。

そして城趾へアクセスするまでに目にする(ヒガンバナ✖️刈った後の田んぼ)のコントラストがキレイでした。

ヒガンバナとひつじ田。


道中に忠盛塚、というのがあって、(清盛のお父さん、ここで亡くなったのー?)とアホな事思っていたら、忠盛の生まれた地で、その胞衣塚があるとの事、伊勢平氏発祥の地とされているようでした。そうなんだ〜😳そんなエリアだから、源氏方の有力御家人がやってきたんかな?と思いつつ帰りました☺️

これって私だけなのでしょうか‥山城に行くようになって、時々林道を歩きますが、なぜか高確率でパトカーに尾行されたり、目的を聞かれます💦至って健全な明るめ軽登山スタイルで意気揚々と登ってるんですが‥💦心配していただいているのはありがたいことなのですが☺️そんなに怪しいかなあ🤨今日は道が悪過ぎて、尾行もなかったですけどね💦

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