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後北条氏ゆかりのお城巡り(韮山城編)

石垣山城の後は後北条氏の聖地、韮山城へ行ってきました。
韮山城編です。
私は駅伝‥特に箱根駅伝が大好きで、駅伝ミュージアムや芦ノ湖にも行ってみたかったんですけど☺️またの機会に。

去年山中城へ行き、土の遺構に感動しましたが、小田原合戦の際、力攻めで半日で落城したことに一番驚きました。城内に街道が走り、交通の要所だからこそ早く落城させられたのでしょうけど。
一方で韮山城は四か月もの籠城のすえ、開城勧告により開城したと知って、行ってみたいと思っていました。

山中城障子堀

さて、韮山城。
伊勢新九郎盛時(早雲)が1491年堀越公方足利茶々丸を滅ぼした後、伊豆国支配と関東攻略の拠点としました。早雲は韮山城をこよなく愛し、小田原城を奪ってからも、生涯韮山城を本拠とし、関東の制覇を目指しました。
韮山城あたりは石垣山城あたりよりポカポカしていたような。早雲さん、実は寒がりかな😅

後北条氏の聖地、もう少し整備されたり、立ち入り禁止がなくなると嬉しいです。

後北条氏は2代の氏綱から小田原城を本拠として関東に勢力を持つ一大戦国大名となりました。韮山城は後北条氏創業の城、聖地ですね。

韮山駅から韮山城へ向かうと、源頼朝と政子の銅像がある、源頼朝の流刑地・蛭ヶ小島公園があります。
案内板を見ると付近には政子の産湯だとか色々史跡があり、巡ると楽しそうなんですが、今回はスルーしました。

頼朝様、富士山、雲被ってますわね❤️

韮山城は本城の他に天ヶ岳を山頂とする5つの砦ネットワークがあり、さらに東には豊臣方の上山田・追越山陣城跡があるのですが、本城以外は私有地、崩落などもあり立ち入り禁止なのが残念です。
また(北条五代)が大河ドラマとかになって整備される日が来るといいなあ。砦は険しいみたいで、とってもそそられる😍
また、本城も崩落箇所や高校や中学の敷地になっているところは立ち入り禁止です。
 
登城口は城池の北西畔にあります。
そこから三ノ丸は高校のテニスコートになっていますので立入禁止。土塁に囲まれたテニスコートってすごいなあ👍

テニスコートな三ノ丸


そこから権現曲輪に入る虎口サイドは高土塁で見応えあります。祀ってある熊野権現に照明がついていたけど、なんで?

権現曲輪手前の堀切


分厚い土塁の権現曲輪



広めの二ノ丸


二ノ丸と本丸間の堀切


二ノ丸と本丸間は堀切になっています。
本丸はそれほど広くはなく、でも見晴らしは良いです。主郭奥に土塁囲みの塩蔵があります。塩蔵というか煙硝蔵、武器蔵かな。ここへは立ち入り禁止で本丸から覗くだけです。

本丸切岸


本丸。櫓台跡から。



塩蔵跡方面へは立ち入り禁止。いつか行きたい。

東麓の城池側には居館跡、城池南側山の尾根状周囲にも堀切があります。

天然の堀的な池があり、居館跡と思われる区画も。

立ち入り禁止が多くて、要害感ははっきりとは解らなかった〜🧐
どうも、高天神城や大河内城、犬居城、など難攻不落のお城って好きなんです。←自分の行ったことのある(東海近辺のお城ばかりですが)
だいたいそういうお城は地形に谷とかが入り組んでいて、勝手知ったる籠城兵がゲリラ戦を展開できるような、天然の要害でもあるお城が多いように思います。
立ち入り禁止が多いながらも、その範疇には当てはまると思いました。

韮山城の主将は北条氏規。
この氏規さんの生涯がなかなかドラマティックです。小説とかになってないのかなあ?

氏規は氏政の弟で、少年時代は今川家の人質となり、家康とは兄弟同然だったとも。
戻ったのちは、三崎城主で三浦郡を治めていました。
氏規は、外交で活躍したことが知られています。安房里見家との和睦交渉、奥羽伊達輝宗や、古河公方足利家との取次。
1568年、武田信玄の駿河侵攻により、駿甲相三国同盟は崩壊し、北条氏は今川氏を支援し、武田氏と対立していきました。
1569年、武田信玄と連携した家康が、今川氏の掛川城を攻めました。これに対し、北条氏は家康と和睦を結ぶことに成功し、その際の取次を務めたのも氏規でした。
1582年本能寺の変が勃発し、天正壬午の乱が起こり、北条氏と徳川氏も一旦対立しますか、同年和睦が成立。氏規の仲介によって成立したそうです。

さて‥‥
関白になった秀吉は、関東と奥羽の(惣無事)を発令しました。これは秀吉が、許可なく行なわれる戦を(私戦)とみなして、その停止を命じたものです。この令に従うことは、秀吉への従属を意味します。

家康を介し、惣無事を北条氏に通告して返答を求めますが、北条氏は明確な答えを返さぬまま、韮山城を始めとした領国内の城郭を普請し、防衛体制を整えはじめちゃいました。
1588年家康は北条氏政・氏直に対して無条件での従属を促す文書を送り(今月中に兄弟衆を、秀吉への御礼言上のために上洛させるように)と求めたそうです。兄弟衆とは、家康との関係から、氏規を指すとみられています。
氏規は上洛し、聚楽第で秀吉と対面する。これは北条氏の秀吉への従属の証といえるものでした。
でも、秀吉が求めていた北条氏政の上洛が実現しなかったこと(やー、いちゃもんやでー)、秀吉が真田領と裁定した上野国名胡桃城を、北条方が奪った事件もあり、秀吉は小田原攻めを決定しました。

北条氏は抗戦の準備を進めましたが、氏規は和睦の道を模索していたそうで、家康に秀吉への取りなしを求めていたそうです。氏規は上洛して、聚楽第を見てきたからね。
しかし、小田原合戦は開始され、東海道軍と東山道軍に編成された秀吉の軍勢は、二方面から北条領国へ進軍しました。秀吉軍は22万にもおよぶ大軍勢だったそうです😅

抗戦に反対であったと思われる氏規ですが、韮山城に入り、1590年主力の東海道軍を迎え撃ちます。
韮山城攻撃軍は、織田信雄、蒲生氏郷、細川忠興、福島正則ら4万4千人の大軍。対して、氏規が率いる韮山城の守備兵は3600人でした。
秀吉軍は圧倒的な兵力で韮山城を攻撃、城下に火も放ちました。しかし、韮山城は要害堅固なうえ、城兵の士気がすこぶる高かったそうです。
はじめに書きましたが、同日に攻められた山中城は半日で落城しましたが、韮山城は落ちませんでした。秀吉は(鳥のかよひ)もできないように、城の周囲に付城を築き、堀や柵を巡らせて包囲を続けさせました。

氏規に対し、家康は(開城して北条氏政・氏直父子の処遇を嘆願しましょう)と開城を促す使者を送ります。その結果、氏規は家康の説得に応じ、籠城から4ヶ月後、投降しました。
秀吉は(上洛して対面したことがある)という理由で氏規の助命を認めたそうです。できるのに韮山城を力攻めせず包囲し続けるのも、氏規を生かしたい気持ちもあったのかな。

やがて小田原城も開城し、5代当主・北条氏直は投降した。氏直は妻が家康の娘であるのが配慮され助命されましたが、氏規の兄である4代・氏政と抗戦派の八王子城主・氏照、家老の代表格である松田憲秀と大道寺政繁は、切腹を言い渡されます。氏規は2人の兄の介錯を務めたのちに、後を追って自害しようとしたが、制止されたとも伝わります。
ここに戦国大名北条氏は滅亡し、戦国時代も終わりを告げました。

氏規は北条氏直とともに、高野山へ配流となりました。
家康のとりなしもあり、氏規は氏直とともに赦免されました。氏直は大名に返り咲くも、すぐ病死しています。
一方、氏規は秀吉から河内国で所領を拝領したのち、大坂久宝寺町の屋敷で没した。享年56。
嫡男の氏盛は、5代・氏直の家督の継承を認められ、氏直の遺領も相続、父・氏規の死後はその遺領も受け継ぎ、1万1千石の大名格となりました。
氏盛の長男・氏信が河内国狭山に陣屋を構築し、これにより狭山藩と通称されます。
以後、氏規の子孫は代々、狭山を本拠とし、1万石を領する大名として、明治維新を迎えるまで存続しました。
うへー、波瀾万丈。狭山陣屋跡、あれば行ってみよう!

韮山反射炉に行って帰ろうと思ってたけど、こうなったら後北条氏名シリーズで、海城の長浜城へ向かいました。
 

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