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2020年7月1日ここから。

あれから365日が過ぎた。釣りに出かけた夫が、摘んできてくれたムラサキツメクサ。一般には赤クローバーとも呼ばれる。アザミだと思い込んでたらしいが、シロツメグサのピンクバージョンだった。

棚を拭き、花を入れ写真を入れ替える。親愛なる友人から送られたお線香は「美山の蓮華」と書かれていた。お線香をあげるという行為が日常になり、気持ちを鎮めてくれていた。いい匂い。いつもと違う香りは気分まで変えてくれる。

おおげさかもしれないが、去年のこの日から、じわじわとざわざわと心の中がうごめいていたのだ。こんな時、少なくとも「静」に心は落ちるはずが、その時のわたしは「動」にかられていた。

それは「ぜんぶ書いて残したい。」という衝動だった。誰に向けてでもなく自分にだ。癖のようなもので、手帳のカレンダーには感じたこと、思ったことを一言日記のように書いている。もう何十年も前から、わたしに染みついている行為だ。

わたしの中で「書く」という行為は、息を吐くことに似ている。日々のいろんな感情を吸い込み、もやもやも溜め込んでしまう。嬉しいことは「うれしい」と言える。「おいしい」も「たのしい」も「おもしろい」も同じだ。

ただ、それ以外の「負」の感情が現れた時には、なるべく言葉にしないようにしている。溜めていいことはない。ダムが制御されずに決壊するようなものだ。恐ろしすぎる。身体も「やってられない。」と機能低下につながる。

そんな「負」の感情も書くことで、ちょっと和らげる。ような気がしている。

哀しいや寂しいも、自分への問いも、焦りも苛立ちもなんでもありだ。そんなことを教えてくれたのがgooだったんだ。一生を通して与えてくれた「わたしの中の感情」がきっかけだったと、いま、確信している。

Instagram、ほぼ日のドコノコを始めたのも、gooの存在なしでは出会えなかった犬たち、飼い主さんのあったかい言葉になんども救われた。一度も会ったこともないのに、友人みたいに、親戚みたいにgooを励まし、元気玉を送ってくれていた。

今でも、その犬たちの写真をみるのがすき。人間も犬たちも歳を重ねる。その過程にいろんなことが起こる。いいことも悪いことも、全部がすべてが、かけがえのない一瞬だったと宝ものになる。

ここから、またはじまる。

げんきですかgoo。わたしはげんきですょ。

今日もありがとう。



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