ビニールに包まれた思い出

 四畳半の狭い部屋。割れんばかりの蝉の声。古いエアコンは役立たずで、ガタガタ震える扇風機だけが頼り。全開にした窓から入ってくる、神田川の湿気とニオイと鉄道の音に包まれて二人、部屋を半分近く占拠した机に向かっている。

 新しい絵の構図を模索しているぼくの隣で、小説を書いていた彼女の手が止まった。頭の中で物語が展開しているのだろう、と手元に目を戻した時、ふいに彼女がつぶやいた。

「悲しいよね。創作には果てがないのに、自分にはあるなんて」

 顔を上げるのと入れ違いに彼女は執筆を再開していて、それで機を逸したのだけれど、口を開いたところで何が言えただろう。

 彼女の出版された唯一の著作を神田の古本屋で見かけた時、白昼夢のようにありありと蘇ったのはそんな何気ない一幕だった。ビニールに包まれた背表紙を指でなぞり、永遠と信じて疑わなかったあの暑い夏と彼女の思い出さえ、触れ得ぬものになってしまうのだということを、しみじみ感じ入る自分に苦笑する。

 色褪せた微かな感傷を胸に、ぼくは取りかけた本をそっと押し戻した。

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