もし、もう一度あえたら

 わずか数軒連なっているだけの飲み屋街にある、カウンター席しかない狭いスナック。そのさらに狭い流し台でわたしはグラスを洗っていた。営業は終了していて、カウンターでママとあの人が世間話をしている。

 あの人はこの街でスナックを経営するオーナーで、怖い人が多い中、落ち着きがあって優しくて……とても大人を感じた。年齢的には一回り年上なだけだが、わたしは父の影を見ていたかもしれない。わたしに父はいなかった。

 突然、蛇口から流れ出る水が猛烈に勢いを増して、手にしていたグラスの中で渦を巻き、飛び散った。それでも洗い物を終わらせたい一心で取り組み、終わって一息つくと、あの人が水浸しになっていた。

「あっ、ご、ごめんなさい!」

 慌ててタオルを取り出し、顔を拭おうとする。あの人は笑みを浮かべたまま、「大丈夫、大丈夫、自分でやるよ」とタオルを受け取った。

「あんた、もう帰っていいよ」ママがキレ気味に紫煙を吐き出す。わたしもそうすべきだと思って、カウンターをくぐり、上着とバッグを手にする。

 この仕事は向いていないかもしれない。ここもわたしの居場所ではないかもしれない。痺れるような不安を感じながら、あの人の背後をすり抜けて顔色をうかがった。あの人は本当に怒っていなかった。肩越しに微笑みを投げかけてくれた。

 唐突に、大胆にも、わたしはあの人の背中を抱いて耳元でささやく。

「もし、もう一度あえたら――」

 そこで夢は途切れた。二十年以上前の、なつかしい夢だった。続く言葉は夢うつつの狭間に消えてしまっていた。

「もし、もう一度あえたら――」

 それは永遠に叶わぬ願い。
 けれど、腕に残る夢の残滓は、確かにあの人のものだった。

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