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1960年代のアメリカ政治

1960年代のアメリカ政治
 
1960年までには、政府が国民の生活においてますます強大な力を持つ存在となっていた。 1930年代の大恐慌時代に、米国民の生活のさまざまな側面に対処する多くの行政省庁が新設された。第2次世界大戦中には、連邦政府に雇用されている民間人の数が100万人から380万人に増え、その後1950年代には250万人で安定した。連邦政府支出は、1929年には31億ドルであったが、1953年には750億ドルとなり、1960 年代には1500億ドルを超えた。

1.公民権運動
公民権運動は60~80年代にかけて起きた運動であり、60年代半ばにピークを迎える。アフリカ系アメリカ人による非暴力的直接行動は50年代の前進を受けますます勢いをつけつつあった。ここでは60年代に起きていた状況を端的に記述する。1962年時点において公民権運動は初期段階であるが大きくアメリカという国家に影響していく歴史的な運動となっていく。
1960年にノースカロライナ州においての白人専用ランチカウンターへの座り込み事件は注目を集め南部に広がりを見せた。マスコミにも取り上げられたこの事件は大きく報道され人種差別意識が比較的強い南部における公民権運動に火をつけた。1961年には公民権運動家によって、「フリーライド運動」が展開され人種隔離がなされたターミナルを周り度々人種差別主義者との衝突が起き、人種差別主義者と衝突を繰り返したことによってさらにマスコミからの注目を浴びた。このような運動に対して、当初ケネディ大統領は南部の白人に公民権運動の支持を求めることをためらった。南部における白人層の支持は無視できない物があったためである。しかし、1962年のジェームズ・メレディスの人種を理由としたミシシッピ大学入学拒否事件が起きると情勢は変わった。この事件は最終的に最高裁判所まで争われる結果となるが、結果的に入学を許可する判決が下った。これを州政府及び大学当局は無視した。これを受けて裁判所はミシシッピ州知事と副知事に対し法廷侮辱罪の適用を勧告すると同時に連邦政府に対して強制執行の手続きに入った。ケネディと司法長官ロバート・ケネディはこれを受け、事件に介入していくことになる。メレディスの入学にあらゆる努力が払われる一方、州政府と大学当局は大きく抵抗。結局ミシシッピ州軍が連邦軍に編入され、連邦軍の出動と大統領による行政命令を布告する結果となった。事の顛末の詳細は省くが人種差別主義者の暴徒と護衛の連保保安官とで衝突が起こり最終的には連邦軍の出動する事態にまで発展した。暴徒は鎮圧されることとなり、メレディス自身も入学することが出来たが多くの負傷者と死者を出す事態になってしまった。人種を起点とする問題はより大きく鮮烈となり、以後公民権運動は高まり続けた。ケネディ大統領は人種差別撤廃を義務付ける公民権法案を提出するものの審議中暗殺される。
黒人以外の人種としては1940~1950年代にかけてネイティブ・アメリカン、プエルトリコ系も差別に直面していた。戦後移民として流入したラテンアメリカ、キューバ人なども差別の対象となっていく。1961年にはラテンアメリカ系の61年にはラテン系アメリカ人のヘンリー・B・ゴンザレスがテキサス州より下院議員として選出され、以降政治の舞台にラテン系アメリカ人も大きな影響を与える事となる。黒人以外の人々も上述したような事件を契機にそれぞれ声を上げ始めることとなる。この他に女性解放運動は公民権運動に触発される形で起こされるものの62年までは公民権運動ほど大規模な活動にはなっていない。

2.ケネディ政権
1960年の大統領選のテーマは拡大する政府の責任の限界であった。民主党は大きな政府を志向し、教育・医療・福祉における連邦政府の役割拡大を訴えた。一方共和党はある程度政府の役割を認めるものの、個人の責任の拡大を訴えた。このような選挙戦の結果は史上最年少の若き大統領ケネディの誕生であった。その若さのエネルギー、具体的な立法政策により大きな支持を国民から受けることとなる。一方で選挙戦は僅差での勝利であり、上下院で民主党が多数を占めるが、南部選出の民主党議員は大きな政府的な政策に度々反対し、共和党と歩調を合わせた。このためケネディは上述した公民権運動へは当初消極的な反応であった。
当初、ケネディ政権の外交政策は積極的なアメリカによる冷戦構造への参画を志向するものであった。キューバに誕生したカストロ共産主義政権を亡命キューバ人がアメリカの支援を受けて、これを打倒するという計画が存在した。前政権時から存在したこの計画をケネディは承認し実行された。しかし、杜撰な計画によって瞬く間に亡命キューバ人部隊は殲滅され、アメリカの関与も明らかになってしまった。このピッグス湾事件の失敗以降ケネディ政権は軍事力の投射に消極的になる。この手痛い敗北は政権への大きなダメージとなった。結果的に当局の関与や自身の責任を認めざるを得ない状況になる。また、ケネディは事件を主導したCIAへの不信感を深め当時のCIA長官ダレスを更迭し、マコーンを後任にあてることとなった。このためラオスにおける共産党支配、ベルリンの壁建築を黙認する形となった。ラオスにおいては反共勢力へ軍事支援を行っても最終的にアメリカによる直接介入は行われなかったのである。ソ連、フルシチョフは61年のウィーン会談よりケネディの決断力について注視していたが、このようなケネディの非軍事介入に対して印象をより強めた。キューバ危機においては海上封鎖やソ連に対する抗議を行い、キューバからの攻撃に対して警告を行った。結果キューバからのミサイル撤去に成功する。キューバ危機においてはケネディらしく様々な手段を検討するタスクフォースを作り、できる限り武力に訴えることを避け続けた。このようにケネディは軍事介入に慎重であると言えよう。ただし、手段の一つとして常に軍事手段は検討しており介入に対して全面的に否定するものではなかった。
ケネディ政権を特徴づけるもう一つの点は宇宙開発である。米ソ宇宙開発競争は第二次アイゼンハワー政権時から激化していた。しかし、アメリカはスプートニク号の打ち上げ、有人宇宙飛行等ソ連から出遅れがちであった。これに対し、アメリカは月面計画の発表や62年のマーキュリー計画においてソ連との宇宙計画へ初めて先行していくことになる。ここではケネディ政権は強力に指導力を発揮し、計画実現に大きく寄与した。

3 戦後の強い大統領権限
 合衆国憲法上の外交における大統領・議会の権限はかなり簡単なもので、双方が主導権を取るため半ば権限を共有形になっている。連邦軍の指揮権は大統領にあるが、宣戦布告権は議会に存在する。このような共依存の形が取られている。1946年に制定された議会組織再編法に基づき組織されたアメリカ議会は大統領がリーダーシップを発揮しやすい状況を作り上げることに協力してきた。1969年に議会が再び関与を深めるまで、40年代半ばから60年代は大統領の指導力が比較的発揮しやすい情勢であったと言える。
 島村は冷戦期における大統領の影響力増加を以下のように説明している。冷戦期には、歴代の大統領が対外政策の重要な決定をNSCなど大統領執行部で行うことによって、国務省の権限は相対的に下落していった。 特にケネディ、ジョンソンからニクソンの時代にかけてこの傾向は強まり、 NSCと国家安全保障問題担当の大統領補佐官の影響力が増大した。特にニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官は、対外政策の決定に国務長官 を凌ぐ大きな影響力を行使した。このように意思決定プロセスに参加する人々は大統領府に付随する人々が中心となっていた。大統領はスタッフの任命に上院に対して同意を必要とせず、かつスタッフは証言台に立つ必要もなかったし、大統領は議会に対する配慮なしに対外政策決定を行うメンバーを選ぶことが出来た。この事によって大統領の議会対策は疎かになっていった。実際にキューバ危機においても基本的に大統領によって招集されたエクスコムによって多くの決断が行われこれは秘密裏に行われることが多かった。このような情勢を「議会の役割は、…行政府が発案した提案を修正し、拒否し、あるいはそれを正当化する役割となっている」と政治学者ロビンソンによる指摘している。このように議会は対外政策を抑制することは困難になり、大統領府における決定に従属的にもなっていた。このような状況で議会対立の回避するため行政協定が多く使われた。これは戦後アメリカが冷戦構造を通じて国際政治に関与するのと比例して増加している。


条約と行政協定の数をあらわした表
議会も国内、反共コンセンサスによる議会超党派による大統領リーダーシップ補佐という場面が多々現れる。例えば国連・NATO創設期におけるヴァンデンバーグ・コナリー等共和党有力議員による協力があったことでアメリカは外交上多くの政策を議会と対立することを避けながら行うことが出来たのだ。一方アジア政策において、共和党は民主党政権と国務省を批判し、欧州政策ほど順調にはいかなかった。また通商政策においてはWTOの議会不支持からGATTを行政協定で成立させるなど行政府と立法府の緊張関係も見られる。いずれにせよ1962年の大統領は議会との関係性は比較的、大統領が指導力を発揮しやすい状態であった。

4アメリカ議会
本項においては会議に存在しないアクター議会というものを理解しつつ会議に参加していただきため、アメリカ議会がどのような存在であるかを理解してもらいたい。アメリカ議会は政策決定への参画という点ではグラデーションがあり、特にキューバ危機や1961年における政策決定への関与度は低かったと言える。しかしながら、決議、拒否、修正といった目に見えるものだけが議会における政策決定への参画ではない。そのため史実でエクスコムの諸氏が想定していた議会との関係性を認識しながら会議に臨んでもらう為、目に見える決議や拒否といった要素以外の議会の動きを意識してもらうため本項では1961年のキューバ侵攻における上院議会の役割を中心に述べる。
 アメリカの根幹を成す民主主義の機能として議会は大きな役割を果たしている。民主主義はできるだけ多くの国民が政治に参画することで政策決定過程関わることを必要とする。一方外交上はこのような大多数の国民の参画を基に行うことは非常に困難である。事実、ヨーロッパにおける「宮廷外交」においてはその殆どが、ブラックボックス化されある程度民主主義としての性質を持ち合わせ始めた第一次世界大戦以前の近代においても変わらなかった。しかし、アメリカにおいては条約締結、外交使節の任命への上院の参与、議会の宣戦布告権など様々な観点から対外政策に議会が参画していた。これはアメリカがヨーロッパと比べ民主的であったというよりも連邦制度を採っていたという点が影響していた。少なくともヨーロッパの伝統的「宮廷外交」とは一線を画すものであった。
しかし、このようなアメリカ議会の原則にも数多くの例外が存在する。1961年におけるキューバ侵攻においてもアイゼンハワー政権から計画され、ケネディ政権で実行されたがこの過程でほとんど議会は関与していない。唯一開始決定前に上院外交委員会委員長フルブライトが相談を受けている位である。このことからキューバ侵攻においては圧倒的に行政府が主導的に行ったものと捉えることができる。一方議会から拒否や決議が出なかったからと言って参画が皆無であった訳ではない。上院の関与は決議や拒否といった「直接的関与」ではなく、政策を批判しないことによる政策自体の正当化や逆に議員同士による世論形成を行いそのために発露した意見なども政策決定に影響を与たえる。そのような行政府が取りうるプランBを提示することによって政策に対して影響力を及ぼす。これは「間接的関与」と言えるだろう。キューバ侵攻における議会の参与は後者の間接的関与であったと言えるだろう。
1959年3月フルブライト上院議員はキューバ侵攻に際して2度ケネディ大統領への反対の意思を伝える機会があった。大統領機に招かれ機上においてキューバ危機反対の覚書を手渡した。2度目は侵攻決定を決める最高会議に招かれこの時点でも侵攻反対を述べている。ある程度ケネディ大統領に対して効果はあったようだが、結局翌日開かれた会議においてフルブライトは招かれず侵攻は決定された。行政府と議会におけるつながりはこの程度のものであった。一方上院議会においては少数の穏健派を除けば武断派が主導権を握っていた。背景にはキューバ革命が共産革命的要素を持ち合わせ始めたことがあきらかになりつつあったからである。1959年にはソ連副首相のキューバ訪問、借款供与やキューバ・ソ連砂糖協定、キューバによる資産接収などが起き上院におけるカストロ=共産政権という見方は決定的になり武断派による侵攻支持の空気が上院を支配した。このような議会における動きはキューバ侵攻を抑止するわけではなく、むしろ助長する役割を果たしたと言える。一方穏健派は沈黙を守ることが多くこのような潮流を防ぐことは出来なかった。大統領の提示する政策や方針に対して批判や検討を行う機能は本件に関して限れば機能していなかったと言える。このような状況下においてはグアテマラ方式や武断派の提示する直接介入といった攻撃的な選択肢のみが残されていく状況となった。
キューバ侵攻を行った段階のアメリカ議会は上記のような動きをしていた。キューバ危機の最中、議会は大きく意思決定に関与したことはほとんどない。ケネディは意思決定を主にエクスコムか自身の側近を中心として行っていたためである。政権側から議会へアプローチがあったのは22日に有力議員に対して行われた時くらいのものである。その際に関しても多くの議員はより強力な手段に訴えるべきだと主張していた。キューバ危機の際の議会、第87議会第2会期においては上院が民主党64議席、共和党36議席の計100議席。下院は民主党260議席、共和党174議席、空席3議席の計437議席であった。数値で見れば明らかに民主党が大勢を占めている状況下である。そのためある程度安定的な状況であったこともケネディ政権にとって好材料であったと言えよう。


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