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平野利樹氏レクチャー「ポスト・デジタルの美学」

本稿は、2021年8月10日に東京大学建築生産マネジメント寄付講座主催のレクチャーシリーズ「つくるとは、」の第二回「美学」における、平野利樹氏(東京大学特任講師)による講演(研究・活動紹介)の内容から構成したものになります。

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建築の美学を考えることは私の研究的関心の一つです。特に現代はポストデジタルと呼ばれるように、デジタルテクノロジーが一般化した後の時代です。ポストデジタルの時代において建築の美学はどうなっていくのか。理論と実践の両面から考えていくことが私の研究テーマです。

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モダニズムの巨匠の一人であるミース・ファン・デル・ローエの言葉を紹介します。「建築は自律的にあるわけではなくて、その時代や文明と共にある。その時代、文明を表現するような建築を設計すべきである」と言っています。つまり、建築の美学は独立して存在するのではなくて、なんらか時代の世界観なりを反映しています。世界観は来たるべき時代における文化的、技術的、社会的な状況から人々の間で醸成されます。だから建築の美学は普遍的なものではなく、時代によって変化してきたものだと考えられます。

接続の時代から切断の時代へ

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博士論文では、デジタルテクノロジーが建築の考え方やデザインの仕方にどのように影響を与えてきたかを考えました。デジタルテクノロジーと建築設計が密接に関係し始めた一つのきっかけが、1990年代半ばのコロンビア大学におけるペーパーレススタジオです。それまでは製図板と紙で図面を描いて設計していました。それを全部コンピューターの中で完結させようとした最初の設計スタジオがペーパーレススタジオです。今ではコンピューテーショナルデザインやデジタルデザインと言われていますが、源流を辿ればいずれもここにいきつきます。研究を通して、ペーパーレススタジオで生まれた建築の考え方や美学にも、やはり時代や社会の状況が影響を与えていることがわかりました。

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90年代の社会的な状況を整理すると、冷戦が終わりベルリンの壁が崩壊して、東西世界がつながっていき、そしてEUができる。多様な国家がEUという一つの枠組みの中で等価に共存するようになる。また、グローバリズムによって人や物、金が国境を越えて自由につながっていく。技術的な状況としては、例えばインターネットです。地理的な境界を越えて自由に情報のやりとりができるようになった。社会におけるさまざまな障壁や境界が取り除かれて、多様性が担保される時代が90年代だったと言えます。これを「接続の時代」と呼びます。

それに呼応するかたちで、建築の美学も技術的・社会的状況を映しながら変化を起こします。例えば、パソコンで物理シミュレーションをしながら、重力を設定して、ボールを落として、跳ね返ったボールの軌跡をそのまま構造体にしていくデザインや、ハリウッドで発達したCG技術をいかに設計に活かすかなど、さまざまな試みがなされました。

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実際に完成した建築の事例では、FOA設計の「横浜大さん橋」が挙げられます。1枚の板が変形しながら、入管や待合室、さらには公園など、フェリーターミナルのさまざまな機能を緩やかに共存させています。国際ターミナルなので、壁のない国境のように緩やかに国外と日本がつながっていくデザインになっています。こうした流線型の美学はどんどんメジャーになっていく、きっかけの一つに、 90年代以降の社会状況や世界観が影響を与えています。緩やかに変形していく可変的な一つのシステムによって多様性を担保していく。それが90年代以降の建築の美学を定義付けてきたと思います。

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ひるがえって現代を見ていくと、もはや接続の時代とは定義できない状況になってきていると思います。2010年代以降は、接続的な状況からより切断的な状況に変化してきている。例えば、ポスト・トゥルースと言われる状況です。まったく相容れない考えを持つ人たちが出てきて、いくら科学的な証拠を提示しても理解し合えない状況が生まれています。

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接続の時代は一つの枠組みで多様性が担保された時代でした。建築の美学もそう定義されてきた。それに対して、「切断の時代」はみんなが共有できる枠組みがなく、てんでばらばらになって、それぞれが完全に切断された状況になっています。理由の一つに過剰性があると思います。Instagramに何億枚の画像が上げられていたり、インターネットでは毎日大量の情報がやり取りされている。あまりにも情報量が過剰になったために、それらを内包するような一つのシステム、一つの枠組みがつくれなくなってしまい、いろんなものがてんでばらばらに散らばっている状況です。

切断の時代に対応して建築の美学もアップデートする必要があるんじゃないかと考えています。どのような美学がありえるのか。最近私が考えているのは、「情報量の膨大さの美学」というものです。英語だと「Aesthetics of (In)Excess」、非過剰性の美学と直訳できると思います。

情報量の膨大さの美学

建築設計において、情報量が圧縮されることは基本的に避けられません。例えば図面は二次元ですが、建築物自体は三次元的なものです。三次元のものを二次元に落として図面を描いて、それを最終的に三次元で施工していく。その意味で情報量は圧縮されています。情報量の圧縮は図面だけではなくて、建築のつくられ方自体においても内包されています。例えば、H形鋼のような工業的につくられた規格材があります。規格材を使うとそこで考慮しなければならない情報量が格段に減ります。そうでないと、1本1本形のちがう木材を、それぞれの形に応じて検討しなければならない。工業部材は材料や厚みや長さが決まっているため、扱う情報が格段に圧縮できるのです。

デジタルテクノロジーでも同様に情報の圧縮が行われています。一見、複雑で情報量が多いように見えるザハ・ハディドの建築ではNURBS曲面が多用されています。NURBS曲面は、少ない点で滑らかな曲線を描くための方法です。複雑に見えるカーブでも実は数少ないポイントでつくられている。その意味で、情報量は圧縮されている。設計プロセスの図面における情報の圧縮。規格材などの建築のつくられ方における情報の圧縮が、建築の美学も定義付けてきたのではないかと考えています。「Less is More」も、「情報量が少ないことはよいことだ」と、そんなふうに翻訳することもできます。

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翻って、今、格段にコンピューターの処理速度が上がってきて、ストレージ容量も大きくなってきています。大量の情報を扱うことができるようになってきている。さらに世界的な状況を見ても、どんどん情報量は膨れ上がっている。そうした状況のなかで、情報量の圧縮の美学ではなく、情報を圧縮しない美学があり得るのではないか。そういうことを言う人が出てきました。

この議論の下敷きになっているのが建築史家のマリオ・カルポです。例えばドーナツを3Dスキャンしたとします。その一つの3Dモデルには100万〜1000万といった大量のポリゴンが入っています。ドーナツ1個で1GBぐらいの容量です。そうすればドーナツの凹凸や形を単純化せずにデータ化できる。3Dスキャンで物理的なものからデジタルなものへの変換し、3Dプリンターを使えばデジタルデータから物理的なものに図面を介さずに出力することもできる。だったら情報を圧縮しないことについて考えようという主張です。

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一方で、3Dスキャナは全てをデジタルデータとして取り込めるわけではありません。存在しない穴が開いてしまっていたり、形が一部変形していたり、そもそも物体の内部は撮影できないわけです。寿司のしゃり一粒一粒までは3Dスキャンできません。必ず何かが抜け落ちたり、エラーで変質してしまう。

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どれだけ3Dスキャンの精度が上がったとしても、そこには「不気味の谷」とよばれるものが存在します。ロボット工学で言われていることですが、人間に似せてロボットをつくっていくと、どこかで急に不気味に感じられる段階が現れます。これを「不気味の谷」と言いますが、おそらく3Dスキャンでも同様で、どれだけリアルに忠実に緻密に捉えたとしても、どこかで不気味の谷が発生するのではないかと思います。あらゆるものを完璧にデジタルで把握して、そのデータを扱うことは根本的に不可能なのではないかということが、私の考えていることです。

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グレアム・ハーマンはオブジェクト指向存在論を主張する哲学者です。2010年頃から出てきた新しい哲学の動きで、彼も「事物の汲みつくせなさ」と言っています。iPhoneは液晶とICとシリコンなどなどの部品からできていて、要素に分解はできるけれど、iPhoneそのものは部品たちとは違った性質をもってるわけです。さらにそれは、人間の理解を超えた何かが隠されているかもしれない。そのように、全てのものは外側からは完全に把握することはできない。近年そうした考え方が提起されています。

情報量を膨大に扱えるようになり、物理的なものがそのままデジタルに移り、それをそのまま出力できると考えたとしても、必ず建築はその過程でフィジカルとデジタルの間を行き来して、情報を変換しながらつくられていくものだと思います。そうした変換のなかで、どこかで情報が欠落したり変質してしまったりする。しかしそれは必ずしも悪いことではなく、むしろそうした穴やエラーのなかにこそ美学が宿っているのではないでしょうか。

ロンドン・デザインビエンナーレ

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ロンドン・デザインビエンナーレで展示していたインスタレーションです。2×8mほどのレリーフで、和紙の張り子でできています。東京とロンドンで3Dスキャンして収集したさまざまな都市のエレメントをデジタル上でモデリングしてコラージュしています。コラージュした3Dのモデリングデータから、コンピューター制御のCNC切削機を使って発泡スチロールの塊から形を削り出していきます。それを型にして、和紙をぺたぺた貼って張り子をつくり、脱型したものをロンドンに送ってレリーフとして組み上げました。

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東京とロンドンの街で3Dスキャンしたものは、エラーがあったりで穴が開いていたりします。さらに、モデリング上で実際の大きさとは違うサイズにリスケールしていく。例えばビルはすごく小さくしたり、ドーナツは実際の10倍のサイズにしてコラージュします。実際のモノが持っていた情報を変換しています。さらにそれを発泡スチロールから削り出すと、CNCのドリルの径によって形の精密さがが変わっていく。だいぶ粗い削り出し方をしているので、そこでも実際の3Dモデルの形から欠落がある。さらに和紙の張り子をすることで、しわが寄ったり重なりによって厚みにも変化が生じる。形が実際のものからさらに離れていきます。

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フィジカルからデジタル、デジタルからフィジカル、さらに手作業を経て、いろんな情報が抜け落ちたり変質したり、付加されることによって最終的に物ができていく。情報の抜け落ち、変換、付加を経るからこそできる新しい価値、美しさみたいなものがあるんじゃないか。その実験として、このプロジェクトをやっていました。
デジタルで建築を考えるとき、ともすれば、極限まで現実に忠実なかたちで何かが設計できると思われがちです。実際はそうではなくて、必ず情報の抜け落ちや変換、変質がある。そうしたものを欠点として見るのではなく、そこに価値を見いだすことこそに新しい美学があるのではないかと考えています。


構成:和田隆介(わだ・りゅうすけ)
編集者/1984年静岡県生まれ。2010–2013年新建築社勤務。JA編集部、a+u編集部、住宅特集編集部に在籍。2013年よりフリーランス