文章なんて書けないものだから
辺境日記
3月某日
最近発見した作家に、菅啓次郎がいる。同じ年代で明治大学の教授らしい。もうそろそろ最終講義をする年齢だろう。
エッセイ以外に詩集を数冊出版しているが、大学教授で詩人というのは、盗人でボランティアをやってるのと同じような胡散臭さを感じる。
彼がそうだというわけではないが、何人か大学教授で詩人という人が思い浮かんでくる。いや、アメリカの大学にだってその類の詩人はいるのだから、日本にいたって不思議ではない。いやいや、アメリカにいるからといって胡散臭いことに変わりはないではないか。と無限の自問自答をする。
貶そうと思ってこの文章を書いているわけではない。昨年刊行の最新刊『本は読めないものだから心配するな』は、タイトルがいいだけじゃなく本にまつわるエッセイとして俊逸なので、お勧めしたい。なにより文章を読む快感を味わえる文章だ。詩人というと、奇天烈な比喩を駆使して、悪寒がするような美文(三島がそうだが)の主が多い。感情に訴えかけようとするあまり論理の飛躍が目に付く。特に褒めそやす文体に最大の欠点がある。酔っているのだ、自分の文体に。自分の表現に。客観性から月ほど遠いところに行ってしまっている。しかし管氏にはそれがない。貴重な書き手だと思う。
あまり読みすぎると、文体が似てくるので、そこそこ好きくらいな作家にしておこう。
さて、わたしは『文章なんて書けないものだから心配するな』という本を夢想してニヤニヤすることにする。