短編小説『スマバレイの錆びれた時計塔』
1
ここはスマバレイ。蒼い海を望み、緑豊かな山に囲まれた高台にある小さな町だ。スマバレイは、別名「ベル・タウン」とも呼ばれている。その呼び名の所以は、町の中心地にある。地上からレンガ色、ベージュ、グラデーションがかった水色の3ブロックに分かれる色鮮やかな時計塔だ。色とりどりの花を咲かせる木々を従え、まさに天空に向かって堂々とそびえ立っている。真ん中のベージュ部分に飾られた時計の針が6時、12時、18時を示すとき、尖った先端から厳かな鐘の音が、鳥かご状にスマバレイに降り注ぐ。町全体を包み込む音色の美しさは、まるで目に見えそうなほど神々しかった。その音は、人々を目覚めさせ、あるいは昼食に向かわせ、そして、内職から解放した。この時計塔は町で暮らす人たちと共にあり、その鐘の音は、人々が病めるときには癒やし、悦ぶときには盛大に祝った。
しかし、それも今は昔のこと。時を知らせる役割が御役御免となった現代、この老体を維持管理するコストは相当に厄介なものになっていた。くすんだ塗装はところどころ剥がれ落ち、華々しさは過去の栄光と化している。塗り直しにまで首が回らない。町会議員のコリンズは、町役場の2階にある議事堂で声高らかに演説していた。
「もはや、時計塔の役割は終わったのです。今では子どもからお年寄りまで、誰もが簡単に時を把握することができます。にもかかわらず、時計塔の老朽化は顕著で、メンテナンス費用はバカになりません。しかも、古い構造のため、部品が市場から無くなりつつあり、修繕にかかる金額は右肩上がり。町の財政を圧迫しているのは紛れもない事実なのです。他に予算を投入すべき課題は山積しています。例えば、未来を担う子どもたちの教育費や、高齢者のみなさんをケアするための医療費です。これまで、時計塔はスマバレイを見守ってくれました。我々が感謝を忘れることはありませんが、見切りをつけるのには良い時期なのではないでしょうか」
汗と唾が飛び散る熱弁が終わると、他の議員たちから拍手が聞こえた。コリンズは、次世代のことを見据え、誰もが先送りにしていた議題に手をつけたのだ。みんな、コリンズのように、はっきりと言ってくれる人間が現れるのを待っていた。
コリンズが自席に着席すると、それに代わって議長が立ち上がった。顎にたくわえた白く長い髭を触り、議場を見渡す。
「では、次回の町会でコリンズ君の提案について採決を執り行います。本日は、これにて解散」
議場にはブザーが鳴り、それを合図に町会は閉会した。複数の議員たちがコリンズを取り囲んだ。
「あなたの勇気ある英断には敬意を表したい」「あなたはスマバレイのホープだ」。そんなことを言われ、コリンズの鼻息は次第に荒くなった。
「みなさん、どうかお力添えください。力を合わせ、明日のスマバレイを作っていきましょう」
「エイエイオー」という掛け声が自然発生的に生まれた。町会が終わったばかりとは思えない熱気だ。「時計塔撤去」の採択に向け、すでにボルテージは上がり始めている。
このままでは次の町会までにオーバーヒートしてしまいそうだったが、運が良いのか悪いのか、それに冷や水を浴びせる者がいた。ひょろりとした長身で、丸眼鏡をかけたヘミングが「ヒッヒッヒッ」と不気味な笑い声をわざとらしくあげた。
議員たちは一気に静まり返り、冷めた視線をヘミングに送った。「また、ヘミングかよ」と、床に捨て吐くように口にする者もいた。
議員の輪から抜け出したコリンズはヘミングに近づき、右手を差し出した。さわやかなスポーツマンを絵に描いたような筋骨隆々とした短髪のコリンズとヘミングが向かい合えば、まるで戦士と悪魔に思えるほど、その見た目の差に目も当てられない。ヘミングは握手には応えず、上目遣いでコリンズの顔を舐めるように見上げた。
「あんたもかわいそうな人だね。こんな、目も耳も無ければ、脳みそも無いような奴らに担がれて」
コリンズは顔を赤くして抗議した。
「どういう意味ですか?」
ヘミングは「ヒッヒッヒ」とまた引き笑いをすると、議員たちの間を縫って議場からゆらりと出て行った。
「ほんと、あいつはどうしていつも協力的じゃないんだ」
ひとりの議員がヘミングの椅子を蹴り上げた。
「コリンズさん、あんな奴のことは気にしなくて良いですよ。あいつひとりが反対したところで、大勢に何の影響もありません。『時計塔撤去』の案は間違いなく可決されます」
コリンズは「ありがとう」と丁寧に礼を述べたが、採択については全く心配していなかった。
ただ、差し出した右手を、公衆の面前で無視されたことに腸(はらわた)が煮えくり返る思いだった。
2
「ただいま」
コリンズが帰宅すると、ひとり息子のケイトが玄関で飛びついてきた。
「パパ! おかえり!」
ケイトを受け止め、抱きしめる瞬間。もう10歳にもなる息子の体重は軽くはないが、一日の疲れは吹っ飛んでしまう。
ケイトに続いて出迎えてくれた妻のヴィオラともハグをしてから自室に入った。スーツを脱ぎ、スウェットに着替えてからリビングに行くと、ダイニングにはピザとラザニア、サラダが並べられていた。
家族3人でのディナータイムは、コリンズにとって単なる団らんの場ではなかった。ケイトに帝王学ともいえる人生訓を授ける貴重な時間だ。
「今日は、どんなことを話し合ったの?」
ピザを片手に、ケイトの目は輝いている。学校で「将来の夢について考えてみよう」といった課題が出されて以来、父親であるコリンズの仕事については興味津々だ。しかも、コリンズの議員としての評判はスマバレイ中に轟き、当然、ケイトの耳にも入っている。ケイトにとってコリンズは自慢の父親で、学校でも鼻高々だった。
コリンズは、今日の演説を再現して見せた。せっかくのピザやラザニア、サラダに唾がかからないようにだけ注意しながら。食い入るように聞いてくれるケイトを前にすると、議事堂で話すより快感を覚える。ヴィオラも、その隣でうっとりしていた。2度目の演説を終えると、コリンズはケイトに尋ねた。
「ケイトは、時計塔の撤去が必要だと思うかい?」
すると、ケイトは間髪入れず「うん!」と頷いた。それだけではなく、「時計塔の修理にかかるお金を他のところに回せたら、喜ぶ人が増えるよね」と自分なりの意見まで述べたのだ。すっかり冷めてしまったピザをケイトから取り上げると、コリンズは自分がそれを食べ、まだ温かいのを代わりに渡した。
「パパ、ありがとう」
よくできた息子は、健気で利口だ。
ピザを食べ終え、ラザニアに取り掛かろうとしたとき、「僕、好きな人ができたんだ!」とケイトが告白してきた。子どもの成長は早い。もしかしたら初恋なのかもしれない。コリンズは自分事のように胸が高鳴った。
「そうか。で、実ったのか?」
そう聞くと、ケイトは少し寂しそうにした。
「いや、まだ良い返事はもらってないんだ」
けれど、まだまだ諦めないと前を向いた。表情は凛としていてたくましい。コリンズが「がんばれよ」と励ますと、ヴィオラも「大丈夫よ」と言ってケイトの髪をやさしく撫でた。
相手は、ミーアというボブカットの可愛い女の子だった。その子のことはコリンズも知っている。確か、ミーアの父親は考古学者だったはずだ。家柄も申し分ない。さすが、息子は女を見る目もある。ラザニアを頬張るケイトの前でコリンズは内心ほくそ笑んでいた。
3
ケイトが教室に入ると、親友のロジーが興奮気味に声をかけてきた。
「ケイト、聞いたぜ。おやじさん、やっぱりカッコ良いなぁ」
ロジーの父親は、コリンズと同じ町会議員。まず父親同士が意気投合し、その流れでケイトとロジーは親しくなったのだが、今では互いに認め合う大親友だ。昨晩、ロジー宅でも父・コリンズが話題に上っていたことを想像すると、むずがゆくもあるが、やっぱり誇らしい。
ロジーは、声が大きいのが長所だ。ロジーが号令をかければ、運動場に散り散りにいるクラス全員を一か所に集めることもできる。教室だから声のボリュームを抑えていたものの、他のクラスメイトたちの興味を引くには十分だった。
「何? どうしたの?」と、何人かがケイトとロジーのところに寄ってきた。その中に、いとしのミーアがいたことで、ケイトは思わず下を向いて頬を赤らめた。ロジーは、ケイトの恋愛事情を知っている。「すごいんだぜ」と、わざわざミーアにアピールするように、大人顔負けの演説を始めた。
「誰もが言い出せなかった時計塔の撤去について、真正面から切り込んだんだ」
ロジーの話に登場するコリンズは魔王の城に乗り込む勇者のようでもあり、その巧みな口ぶりに乗せられて、小さな聴衆たちの心は引き込まれていった。
「それはね、僕たち子どもやスマバレイの将来を考えた末の、つらく厳しい決断だった。でも、ここにいるケイトの父親コリンズ議員は、批判を恐れず、それをやってのけたんだよ」
「おぉー!」という歓声があがり、教室は拍手に包まれた。ミーアも微笑みながら手を叩いている。
「ありがとう」
クラスメイトに向かって、そして今も議事堂で務めを果たしているであろう父を思い浮かべてケイトは頭を下げた。
「それに比べて……」
ロジーの欠点は、おしゃべり好きな人間によくあるように、一言余計なことだ。ここでやめておけば、みんな気分良くホームルームを迎えられたのに。
ロジーは、演説の勢いそのままに、窓際の後ろの席で頬杖ついて座っているジェニファーを指さした。
「あいつの父親は薄気味悪い笑い声をあげて、コリンズ議員や僕の父さんを愚弄したらしい」
号令をかけられたかのように、みんなが一斉に視線を向けると、ジェニファーは傷んだ毛先を触りながらぷいっと窓の方に顔をそむけた。
「親子そろって感じ悪いな」
ロジーが罵倒すると、座ったままのジェニファーが睨みを利かせてきた。そして、大きくため息をつき、こう言いのけた。
「あなたたちは親子そろって頭が悪いのね」
反撃を受けると思っていなかったのか、ロジーは面食らい言い返せなかった。気まずい空気が流れたが、ちょうどチャイムが鳴り、先生が入ってきた。
それぞれが席に着く中、ケイトはジェニファーと目が合った。
彼女は、笑っていた。
しかし、それはハッピーなものではない。人を人として見ない冷徹な目で見下されているようで、ケイトの動揺は授業が始まってもしばらくは収まらなかった。
4
その日の放課後、今度のクラス会で披露する吹奏楽の練習をロジーたちとする約束をしていたケイトだったが、急遽断った。不満そうなロジーに「自主練しておくから」と詫びを入れたケイトは門を出て、朝来た道とは反対の方に走って行った。
山手にある学校から田んぼ道を横目に走ると、先を歩くジェニファーの姿をとらえた。スピードを落とさず肩を叩くと、驚いたジェニファーは細い体をビクッとさせたが、その正体がクラスメイトだとわかってすぐに落ち着きを取り戻した。
「何か用?」
無表情のジェニファーと向かい合うと、ただでさえ気圧されるが、ここまで走ってきたケイトは息が上がってしまっていて言葉を口にできないでいる。
「用が無ければ、帰るわよ」
ジェニファーが歩き始めたため、ケイトは慌てて「ちょっと待って」と叫んだ。振り返るジェニファーは怪訝そうだ。
「今日のことはごめん。ロジーに代わって、僕が謝罪する。君のことを傷つけるつもりなんて無かったんだ」
ジェニファーは笑った。ホームルームの直後に見た、あの冷徹な目で。ぞくぞくした感覚がよみがえる。
「ほんと、親子そろって良い子ちゃんでいたいんだね」
「別にそんなんじゃ……」
「私、全く気にしてないから」
立ち去ろうとするジェニファーをケイトはまた呼び止めた。
「何よ」
「ひとつだけ教えてほしい」
ジェニファーはイエスともノーとも言わないが、歩き出す素振りは今のところ無い。ケイトはその隙間を埋めるように、一息で言い切った。
「今朝、『あなたたちは親子そろって頭が悪いのね』って言ったよね? あれは、どういう意味? 僕には、売り言葉に買い言葉といったようには聞こえなかった」
ジェニファーは笑みを浮かべたが、先ほどと比べると幾分かは和らいだように感じた。「ふーん」と言いながら、指で毛先をクルクルしている。
「あなたは父親より少しは利口なのかもね」
父親より利口? 尊敬する父親より?
その言葉の意味が理解できず、怒るどころか戸惑っていると「付いておいで」とジェニファーが歩き出した。ケイトは、何がなんだか事情がつかめないまま、後ろを付いて行くことにした。
5
田園風景を抜けると、広場に出た。目下、スマバレイで注目の的になっている時計塔が今日もひっそりと佇んでいる。
時計の針は16時を指している。18時になれば、本日最後の鐘の音が鳴る。最近では、音がダブって聞き心地が良くないと悪い意味で評判になっていた。
ジェニファーは後ろのケイトを振り返ることなく、スタスタと歩いた。どこに向かっているのかケイトには見当つかないが、尋ねる余裕は無かった。いつも席に座ってばかりで静的な印象が強いジェニファーだが、歩くのが速い。ケイトは必死に後を付いて行った。
「ここよ」
ある館の前でジェニファーは足を止めた。時計塔を正面にして左手方向にあるこの古い館は、大規模なリノベーションが施され、今では老人ホームとして活用されている。クリーム色の扉を開けたジェニファーが入って行ったので、ケイトも続いた。
ロビーには明るい茶色のフローリングが敷き詰められていて、奥に進むと食堂のようなものがあり、そこにはたくさんのお年寄りがいた。テレビを見たり、手遊びをしたり、思い思いに自由に過ごしている。その様子は、ケイトに幼稚園時代を想起させた。
ジェニファーを見つけると、彼ら彼女たちは「いらっしゃい」と歓迎した。よく足を運んでいるようだが、学校でのジェニファー像からは意外な一面だった。
「パサおばあちゃんは?」
ジェニファーが聞くと、紅茶を飲んでいたおじいちゃんが「裏庭じゃないかな」と足元の杖を上げて教えてくれた。
裏庭には小さい花壇があった。施設の人や、もしかしたら、ここで過ごすおじいちゃんやおばあちゃんが世話をしているのかもしれない。とても綺麗に整備されている。
その花壇を眺めるようにして、おばあちゃんがひとりベンチに腰かけていた。その人がパサおばあちゃんだった。ジェニファーは「こんにちは」と挨拶すると、パサおばあちゃんの隣に座った。ケイトは座らずにベンチの前に立つことにした。パサおばあちゃんは耳が良くないかもしれないし、横一列に座ると自分の声を聞き取ってもらえないかもしれないと考えたからだ。
「今日はね、パサおばあちゃんにお話ししてもらいたいことがあるの」
ジェニファーがやさしく声をかける。ケイトやロジーと接するときとは別人のような声色だ。
「なんだい? なんでも言ってごらん」
「あのね、時計塔のことなの」
なぜ、ここで時計塔の話なのか。すぐにでも「なんで?どうして?」と尋ねてしまいたいのが伝わったのか、ジェニファーは小さい子どもの駄々を叱るような目つきをしていた。ケイトは黙る他なかった。
「あの時計塔はね、私にとって家族みたいなもんさ。生まれたときからそこにあって、ずっと傍で私を見守ってくれた。私は今年で90歳になるんだけど、だから90年の付き合いだよ。両親が死に、旦那に先立たれ、しまいには戦争で2人の息子も失った。家族の誰よりも長い時間を一緒に過ごしているのが、あの時計塔なんだよ」
花壇の周りで小鳥が数羽遊んでいる。裏庭には、そのさえずりだけが聞こえていた。
「今まで生きてきてね、嬉しいことや楽しいことより、悲しい思いをしたことの方が多かった。旦那が死んで、息子たちも死んでひとりになったとき、生きていく希望も見えずに人生を終わらせようと思った夜が何度あったことか。それでも朝になると、いつもあの鐘の音が鼓膜を揺らすんだよ。何があっても、何も変わらない。毎日は、これからもちゃんと続いていくんだよって、教えてもらったような気がしてね」
パサおばあちゃんは膝に手をつきゆらゆらと立ち上がると、腰に両手を当てながら深呼吸をした。その背中に投げかけるように、さっきとは打って変わった淡白な口調でジェニファーが言った。
「その時計塔が、もう間もなく取り壊しになるみたいですが」
ケイトはドキッとした。ジェニファーは意図していないだろうに、悪いことに加担しているような思いに駆られたのだ。パサおばあちゃんはしばらく押し黙り、言葉を選ぶようにしてゆっくりと話し始めた。
「さみしいね。とても、とてもさみしい。私も大人だから、事情はわかるよ。あの時計塔にかかるお金が浮けば、その分、他のことに使うことができる。それに、私たちは今じゃお荷物で、ただでさえ若い人たちに面倒を見てもらっている。そんな状況で、わがままなんて言えるはずがない。私だけじゃない。みんなそうさ。ここで好き勝手させてもらっているのも、町が予算を付けてくれているおかげ。『時計塔を残してほしい』って言って、例えば、ここの予算が削られでもしたら、大変じゃない。死を間近に控えた老人でも、その日が来るまでは生き抜きたいものなんだよ。でもね、さっきも言ったとおり、私にとって時計塔は家族なんだ。だから、近頃じゃ打算的な自分がイヤになっちゃうよ」
老人ホームを出ると、17時を回っていた。ジェニファーは「じゃあね」とだけ言って立ち去ろうとした。
「僕に何も言わないの?」とケイトが尋ねると、苛立ちを隠さずジェニファーは怒鳴った。
「いいかげん、自分で考えな!」
夕日に照らされたジェニファーの瞳は、うっすらと光っていた。父さんに「女の子を泣かしてはいけない」って言われたはずなのに。
ケイトは、時計塔を見上げながら待っていた。鐘の音が鳴るのを。こうしてじっくりと見上げるのも、鐘の音を待つのも初めてのことだった。
夕焼け空をカラスが飛んでいる。今日も一日が終わる。パサおばあちゃんたちは、いつもこうして時計塔を見上げながら、人生を生きてきたのだろうか。
18時になり、鐘の音が鳴った。相変わらず、音はダブってお世辞にも美しいとは言えない。パサおばあちゃんの言葉がよぎった。
「もう、家族は失いたくないよね」
ケイトは、鳴り終わるまで耳をすませていた。
6
その日の夜、ケイトはなかなか眠れずにいた。頭がやけに熱く、首から上だけ火照っている。頭から離れないのは、時計塔のことだった。
リビングに行くと、コリンズとヴィオラがソファに座ってホットココアを飲んでいた。
「あら、まだ起きてたの?」
ケイトの冴えない表情を察したヴィオラは、自分とコリンズの間に座らせた。
「何かあったのか?」
コリンズも心配そうだ。
時計塔のことについて父さんに聞いてみたい。しかし、ケイトには憚られた。
「父さんが間違うはずなんてない」「父さんは町の英雄じゃないか」。そんな思いが去来し、コリンズに疑いを持つこと自体に罪の意識が芽生えていたのだ。
手足をモジモジさせているケイトの様子を見て、コリンズは幾らか焦った。これは何事だ。ただ、その焦りをケイトに見せてはいけない。コリンズはいつも以上に大らかに振る舞うことを決めた。
「ケイト、僕とケイトは親子じゃないか。もちろん、家族にだって言いたくないことはある。それなら無理に言う必要はないが、もし、僕に話すことで少しでも気持ちが楽になるかもしれないのなら、試しに言ってみてごらん。どんなことでも構わない。ホットココアも淹れたばかりだし」
ヴィオラも「そうよ」と穏やかに同意した。
両親にここまで言ってもらって、それでも黙るのは、それはまた失礼だ。打ち明けることより黙ることへの罪悪感が大きくなったことで、ようやくケイトは話を切り出した。
「あのね、父さん。時計塔のことなんだけど……あれって、やっぱり取り壊さなきゃいけないの?」
失恋の話でもされるのかと思っていたコリンズの反応が遅れた。それをサポートするかのように、ヴィオラが諭した。
「昨日、お父さんに話をしてもらったでしょう。時計塔の撤去は、これからのスマバレイにとって絶対に必要なのよ」
「でも、心の中ではそれを望んでいない人たちもいるみたいなんだけど」
ヴィオラがコリンズを一瞥すると、頬が紅潮しかかっていた。
「ケイト、今日はどこに行って来たんだい?」
何でも話してくれと言ってしまった手前、何とか笑顔を保つが、コリンズの顔の筋肉は引きつっていた。
「時計塔近くにある老人ホームに行ってきたんだ」
「誰とだい?」
「クラスメイトのジェニファーだよ」
ジェニファー。その名前には覚えがある。あの忌まわしいヘミングの娘じゃないか。
コリンズの頭に血が上りそうな気配を感じ取ったヴィオラはケイトを促し、自室に戻らせようとした。
「その話は改めて。もう夜も遅いから寝なさい」
消化不良だったが、仕方ない。ケイトは「おやすみなさい」と言ってリビングから出た。
夫の気持ちを落ち着かせようと、ヴィオラがゴツゴツとした左手を握ると、コリンズは静かにつぶやいた。
「時計塔の撤去は、何がなんでもやらないといけないんだ。絶対に。誰が何と言おうとも」
ココアはすっかり冷めていて、カップを持つ右手は小刻みに震えていた。
7
そして迎えた「時計塔撤去案」採決日。議事堂には全議員が集結し、熱気を帯びていた。しかし、その熱気は人の密度過多で発生したものにすぎず、採決そのものは何の波乱もなく、賛成多数で可決された。
コリンズは、集まる議員たちと握手を交わした。右奥から不穏な空気が漂っていたので見てみると、ヘミングがうなだれるように座っていた。
「あざけ笑う元気もないか。娘を使って愛する息子を洗脳しようとしやがって。ざまあみろ」
そんな感情は一切外に出さず、コリンズは仲間と労をねぎらい合った。
時計塔撤去決定のニュースは、ケイトの通う学校にも速報として伝わった。
教室でロジーが大声で万歳すると、クラスの全員がそれにならって万歳をした。
ひとりを除いて。
ジェニファーは、窓の外を向いたまま動かなかった。ジェニファーに見られているわけではなかったが、ケイトの万歳は控えめになっていた。
8
時計塔の撤去。その日はすぐにやってきた。
撤去を急ぐように精力的に動いたコリンズたちの根回しのおかげで、スムーズに事が進んだのだ。
勇退セレモニーと称し、早朝から町を挙げてのお祭りが催された。上空にはカラーテープが張り巡らされ、広場を囲むように立ち並んだお店の外壁には、ケイトやロジー、ミーアたち子どもらが描いた時計塔の絵が貼り出されている。
ケイトはロジーたちとお祭りを満喫する最中、ジェニファーの描いた絵を探してみたが、見つからなかった。それに、当のジェニファー本人の姿もなかった。
セレモニーは12時の鐘の音をもって幕を閉じた。その後、時計塔の下には円を描くようにコーンが設置され、等間隔に警備員が配置された。
「危ないですから、離れてください」
多くの人が集まる中、警備員の怒号が飛び交い、あたりは騒然とした。
「今から、ダイナマイトによる時計塔の撤去を実施いたします」
スピーカーから女性のアナウンスが告げた。「ダイナマイトで撤去」という危なっかしいフレーズであるはずなのに、「今日の天気」を伝えるような口ぶりだった。
「10秒前……5秒前……3、2、1……爆破」
凄まじい爆発音と地鳴りとともに地面が揺れた。
大量の煙を巻き上げ、膝から崩れ落ちるボクサーのように時計塔はあっけなく壊れた。残ったのは、瓦礫の山だ。
花火でも見たかのように人々は拍手や口笛をしているが、ケイトには聞こえた。
誰かのすすり泣く声が。
9
その日の18時。
スマバレイから鐘の音が初めて消えた。
10
それから10日ほど経った頃、ケイトは時計塔跡地に来ていた。山のようにあった瓦礫は綺麗さっぱり無くなり、更地になっている。そのコンクリート部分の面積の広さが、時計塔の大きさを物語っていた。
見上げた視線を落とすと、そこには真っ黒の服を着たジェニファーがいた。その衣装は遠目からでもわかる。喪服だった。
ケイトが近づくと、ジェニファーは一言つぶやいた。
「パサおばあちゃんが亡くなった」
ケイトは言葉を失った。
もしかして……。そう思った矢先、ジェニファーが先に口を開いた。
「そうよ。時計塔が無くなって、パサおばあちゃんは死んだ。でも、安心して。パサおばあちゃんは誰も恨んでいなかったし、私も誰かを恨んでいるわけじゃない。ノスタルジーに浸っているだけじゃ人は生きていけないから、いずれこうなってたはずだし。ただね……」
言葉に詰まったジェニファーは、突然、顔を覆って泣いた。
「やっぱり、かわいそうだったよね」
ケイトは、むせび泣くジェニファーを抱きしめた。
11
「いいかげん、自分で考えな!」
自宅に戻り自室にこもったケイトは、あの日のジェニファーからの一喝を何度も思い返していた。
パサおばあちゃんの本心を知ってしまった自分。しかし、パサおばあちゃんは死んでしまって、時計塔はもう無い。帰り道、目を腫らしたジェニファーにケイトは約束した。
「僕、考えてみる」
部屋からロジーに電話をかけた。ロジーと電話で話すときは通話音量を下げておくのだが、それを忘れてしまって、鼓膜が破れそうになった。でも、その声に負けないくらいの力を込めてケイトはロジーに伝えた。
「ロジー、大親友の君に一生のお願いがある」
これからロジーに何もお願いできなくなっても構わない。そして、今度ロジーが一生のお願いをしてきたときは、必ず力になってやろうと心に決めた。ケイトには、それだけの覚悟があった。
12
ジェニファーは、教室の机の引き出しに何か入っているのに気づいた。見ると、手紙。差出人はケイトだった。ラブレターかと期待していたが、中身は違っていた。
「今度の土曜日、12時に時計塔跡地に来てほしい。 ケイト」
13
約束の時間の数分前に到着したジェニファーは、目の前に広がる光景が信じられなかった。
時計塔跡地にいる知った顔の数々。ケイトやロジー、ミーアといったクラスの面々が立っていた。
しかも、ただ立っているのではなく、その手にはトランペットやフルート、サックスといった楽器を携えている。
ケイトからアイコンタクトを受けたロジーがカウントダウンを始めた。
「12時まで10秒前……5秒前……3、2、1」
12時ちょうどに鳴り出した軽快なメロディー。行き交う人々は歩みを止め、釘付けになっている。老人ホームの窓からも、たくさんのおじいちゃんやおばあちゃんが顔を覗かせていた。
決して上手ではない。音は間違うし、テンポはバラバラだ。ただ、それでもケイトたちは懸命に、なりふり構わず演奏した。すると、そのガタガタのメロディラインに合わせて、町の人たちが次第に体を揺らし始めた。さも、それを待っていたかのように。
自由に奏でられた下手くそな音色は、風に乗ってスマバレイ中に、いや、スマバレイをも越えてどこまでも高く飛んでいきそうだ。
「パサおばあちゃん、聴こえてる?」
ジェニファーは涙をこらえることができなった。
ほんの数分間のめちゃくちゃな演奏が終わると、数人の警備員が「お前ら、何やってるんだ」と広場に乗り込んできた。
ロジーやミーアたちを先に逃がすのに必死だったケイトは捕まってしまった。
「あれ、君はコリンズさんのところの息子じゃないか。お父さんの顔に泥を塗るような迷惑行為をして恥ずかしくないのか」
連れて行かれる際、首をすぼめてみたケイトだったが、誰にも気づかれないようにこっそりと、ジェニファーに小さくガッツポーズを見せつけたのだった。
14
ここはスマバレイ。蒼い海を望み、緑豊かな山に囲まれた高台にある“歴史深い”小さな町だ。
ここでは春と秋の土曜日に、町の中心地にある広場で音楽祭が開かれている。主役は、町の子どもたちだ。
ちょうど12時と18時に短い演奏を始める。トランペットやフルート、サックスが入り混じった軽快なメロディーがスマバレイを包み込むが、その音色には人々の心を癒やす力があった。
この音楽祭は「ヘミングのミュージックタイム」と呼ばれている。しかし、その所以については諸説あり、確かなことはわかっていない。
fin.
★スピンオフ作品(1)ショートショート『秘密基地の約束』
★スピンオフ作品(2)ショートショート『空色のくつ』
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