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【プロレス短編小説】『その男、藤原につき』
1976年12月
12月といえどもパキスタン・カラチの気温は30℃近くなる。じわりと滲む汗は、その暑さからではなかった。リング上では、師と慕う"あの人"と"英雄"といわれる地元レスラーとの死闘が繰り広げられていた。
グラウンドの攻防になる。"あの人"が腕を取り、リストロックが極まる。"英雄"が、苦悶の表情を浮かべる。だが"英雄"は、そのプライドのためか決してタップしようとしない。"あの人"の目が妖しく光り、狂気が宿る。何かを叫んでいた。
折るぞ…と聞こえた
"あの人"の顔が一瞬のうちに、時折見せる鬼の形相へと変わってゆく。
"あの人"は何に怒り
何がそんなに哀しいのだろう
"あの人"が一層力を込め、さらに捻り上げた。めったに聞くことのない、本能的に不快な音が肚の底に響いた。"英雄"の腕から力が抜け、だらりと垂れ下がる。レフリーが試合を止めた。
折ったぞ…!
"あの人"が眼に狂気を宿したまま、雄たけびを上げた。"英雄"側のセコンドがリングになだれ込む。"英雄"の不様な姿に激昂した観客が罵声を浴びせ、一斉に立ち上がる。怒号が響き、今にも押し寄せようとする。無意識にリングに駈け上がり、両手を拡げ"あの人"の前に立ちはだかった。
撃たれる…
リングを取り囲む兵士たちが、客席へ銃を向ける。あたりが静寂に包まれ、一瞬時間が止まった…ような気がした。
オレは…ここで死ぬのか
それでもいい…
猪木のためなら…死ねる!
その男…藤原につき
ーーーーー
その男に、華やかな光は似合わなかった。
"上"で試合をしたのは数えるほどだ。誰にも注目されていない影…"前座"こそが、自分の居場所だと思っていた。
スターになりたいわけではない
人相も悪く、生来の吃音のためうまく喋ることさえ出来ない。それでも、時折やってくる道場破りや未知の選手とのスパーリングの際には、必ず声が掛かった。いざという時に"あの人"の盾になり守る。そのために"神様"といわれる外国人レスラーにも自ら志願して指導を受けた。
ただ強くなりたかった…
レスラー仲間からさえも変人扱いされるほど、ひたすら練習に打ち込んだ。それがプロレスラーとしての矜持であり、存在意義であった。
1983年8月
スーパーヒーローと言われたマスクマンが引退した。
"会社"にいやな空気が漂いはじめたのはその頃からだった。だが、一介の前座レスラーに"会社"の事情など知る由もなく、また興味もなかった。いつものように、やはりプロレスの"神様"を崇拝し、慕ってくる若手の二人…前田や高田と道場で汗まみれになるまで練習する毎日だった。
「やってもらいたい仕事がある…」
"会社"に入った同期で、友人でもあるレフリーの高橋がそう声を掛けてきたのは、そんないやな空気の中で始まったシリーズが、しばらく経った頃だった。
「あいつ…やっちゃってくれないか」
このシリーズには、ディック・マードック、バッドニュース・アレンなどおなじみの常連以外、これといった目玉となる外国人レスラーはいなかった。未知の強豪として呼んだ"ヘラクレス・ローンホーク"という黒人レスラーをエース格にしようと期待して、開幕戦のセミファイナルでシングルマッチが組まれたが…これがとんでもない一杯喰わせ物だったのだ。
「使えないくせに、エース外国人みたいな顔してやがる」
シリーズが進むたびに試合順は下になり、それでも本人はエース格のつもりで、外国人レスラーの世話係でもある高橋も手を焼き、ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう。
「"社長"は…何て、言ってんだい」
そんな選手でも"社長"と対戦する前に潰してしまっては、その価値が下がってしまう。
「"社長"は今…それどころじゃない」
開幕の日、"社長"と顔を合わせるなり怒鳴られたことを思い出した。
藤原、お前もか!
何のことかわからぬまま応えることも出来ず、ただ寂しかった。どうやら"会社"に何かが起きている…それが、ここ最近のいやな空気の正体であることが何となくわかってきた。
開幕直後の田園コロシアム。惨敗に終わった6・2IWGP決勝戦以来復帰したリングで、"社長"は最後に絶叫した。
てめぇらいいか
姑息なマネをするな
片っ端からかかってこい
全部相手にしてやる
俺の首をかっ切ってみろ
それはただのパフォーマンスなどではなく、心情を吐露した魂の叫びだった。"社長"はあの輝きゆえ誰も寄せ付けず、誰も近付くことさえ出来ないのだろうか。
スーパースターの孤独
その光と影…
「次のTVマッチ…たまには"上"でやってみないか」
「"報酬"というわけか」
「"社長"が言ったんだ…たまには藤原も使ってやれってな」
「…」
「"社長"を守れるのは、アンタしかいねえ」
痛い所を突いてきた。高橋は口が上手い。
「最近は国際や維新軍…乱入や乱闘みたいな試合ばかりだ」
「…」
「たまにはお客さんに、本物のレスリングを見せてやってくれよ」
こうして次回のTVマッチのセミファイナルで、木村・藤原VSマードック・アレンの試合が決まった。マードックとアレン…どちらもレスリングが出来る本物のプロレスラーだ。相手にとって不足はない。唯一、不満があるとすればタッグパートナーだけだろう。
1983年9月16日吉川町体育館
組み立てられたばかりのリングの上では、道場と同じようにグラウンド中心のスパーリングが繰り広げられていた。TV局のスタッフが中継の準備をする体育館に、時折うめき声とギブアップの意志を示すタップの乾いた音だけが響く。
TV中継があろうがなかろうが、それがいつもの光景だった。それは客入りが始まってからもしばらく続いた。入って来たばかりのお客さんがリングを囲む。通常のプロレスとは違う"極め合い"に、誰もが固唾を呑み静かに見守っている。高田の腕を極めると、座礼して練習を終えた。この試合前と道場での練習こそが"ストロングスタイル"の原点だと信じていた。
カーン…カーン…カーン!
試合開始を告げるゴングが打ち鳴らされ、第一試合が始まった。TVには写らない無名の若手同士の試合では歓声が上がることもなかったが、それでも徐々にお客さんの目はリング上の闘いに惹きつけられ、やがて静かだった会場に熱が帯び始め、しだいに湧いてくる。その雰囲気が控室にも伝わってくると、気持ちが昂ってきた。
だが、いつもならバカ話をしながら出番を待つ控室も、どこか居心地が悪かった。それは久しぶりに"上"で試合をするからではなかった。
誰もが
疑心暗鬼…
決して心から笑える雰囲気ではないのだ。プロレスラーは良くも悪くも、人に見せる職業だ。控室がこんな雰囲気で、お客さんにいったい何を見せるというのだ。
くだらねえ
どこにぶつけていいのかわからない、沸々と湧き上がる怒りをぐっと抑え、控室を出て通路で体を慣らし始める。
試合で
ぶつければいい…
TV中継が始まったのか、館内から聞こえる歓声が一段と大きくなった。いや…ただの歓声ではない、リングで何かが起きている。控室から試合を終えた若手が次々と飛び出し、リングに向かっていた。
しばらくすると試合に出ていたはずの前田が、若手の山崎に肩を担がれ戻ってきた。
「どうしたんだ」
「長州にやられました」
どうやら前田は入場した直後に、対戦相手の長州とキラー・カーンに襲撃され試合前にKOされたようだ。
「試合は」
山崎が答える。
「高田さんが」
「高田が…」
急いで控室に戻り、モニターの前に立つ。
TVのモニターには、リングサイドの"社長"と高田が映し出されていた。"社長"が、試合に出ろと言っているようだ。突然高田の頬を張り、気合を入れた。
高田がTシャツを脱ぎ、リングに上がる。闘志が漲っている、"社長"の闘魂が注入されたのだ。そういえば、高田は"社長"の付き人だった。
そうか…"会社"は
高田を売り出そうとしている
前田も高田もスパーリングで何度ぐちゃぐちゃにしたかわからない。それでも必死に食らいついてきた。帰る場所がなかったからだろうか…なぜか二人とも、家庭環境に恵まれていなかったのだ。
頑張れ
高田…
維新軍に完膚なきまでに叩きのめされ、5分余りで試合は終わった。
無理もない…藤波のたっつぁんがパートナーとはいえデビューして2年の若手と、今をときめく維新軍とでは技も体も違う。それでも見せ場を作り十分健闘した。山崎とクロネコに肩を担がれ高田が戻ってきた。
「よく、やった…」
そう声を掛けると、高田が申し訳なさそうにうつむいた。
大丈夫だ…
お前らこそ
"上"の陽の当たる場所に
立つべきレスラーだ
「藤原、行くぞ」
タッグパートナーの木村がやって来た。木村は年齢こそ下とはいえ、この世界に入ったのは先で、かつて若手のみのリーグ戦で優勝を争った仲だった。
「その恰好でいいのか」
何のことか、わからなかった。木村は黒いジャケットを羽織っている。
入場コスチュームのことか
前座レスラーに、入場コスチュームなどない。
プロレスは
恰好でやるもんじゃねえ…
マードックらしい陽気なテーマ曲が聞こえてきた、マードック・アレン組が入場する。そして、木村のテーマ曲が流れると、思わず気を失いそうになった。
若手の新倉がドアを開けると、大きな歓声が聞こえリングに向かう通路に観客が押し寄せていた。新倉がそれをかき分け先導する後ろから、観客を威嚇するように進む。
リングが
いつもより眩しく見えた
「藤原~喜明~っ」
リングアナにコールされると、一歩前に出て一礼した。これも"神様"譲りの所作だった。いつもの前座の試合では聞くことがない、拍手と歓声が上がる。名前を呼ぶ声は聞こえなかった。ほとんど知られていない前座の中堅レスラーだ。知っている客がいるとすれば、よほどプロレスマニアか変わりものだろう。
カーン!
ゴングが鳴った。リング中央で先発のアレンと向き合う。最近ではブッチャーと組むことが多く、ラフファイトを得意とする悪役であるが、五輪で銅メダルを獲ったほどの柔道の実力者で、練習生として道場での"極め合い"も経験している、ストロングスタイルを知る数少ない外国人レスラーだった。
手四つから試合が始まる。かつて道場で何度もスパーリングをした仲だった。お互いの技量はわかっているはずであるが、その頃を思い出すかのように腕を取り合い、なかなかロックアップにはいかない、いかせない。すでに試合の主導権争いが始まっていた。
じりじりと間合いを詰めると手を引き寄せ、ようやくロックアップ。その瞬間、アレンは腕を首に巻き付け、すかさず首投げ。そのまま袈裟固めに入ろうとするが、するりとくぐり抜け立ち上がる。
再びリング中央で間合いを取り、ロックアップ。アレンのバッグに回ると足を取りテイクダウン。グラウンドでバッグを取ろうとするが、アレンが腕を絡め取らせない。リング中央で四つん這いのまま睨み合い、やがて同時に立ち上がる。それは維新軍の試合のような派手さはなかったが、客席から拍手が起きた。
リング中央で三たび睨み合うと、アレンがうっすら笑みを浮かべた。それが合図のように、悪役に戻ったアレンが突然ラフファイトに走る。
首を掴みコーナーへと引きずると、コーナーポストに叩き付ける。コーナーにもたれていると、今度は頭を掴み勢いを付けヘッドパッド。
客席から笑いが起きた。痛がっているのは仕掛けた方のアレンだったのだ。怒ったアレンが首を掴み、今度は頭をコーナーポストの金具に叩き付ける。だが、何事も無かったように涼しい顔でアレンを見ると、もう一度今度は2回3回と叩き付けた。
それでも、痛い素振りを見せることすらなくアレンを見て「にやり」と笑うと、コーナーポストの金具に頭突きをするかのように自らの頭を打ち付けた。アレンが驚いたような表情を浮かべた。静かだった客席からやはり驚いたようなざわめきが聞こえてきた。これで観客に石頭が印象付けられた。
アレンににじり寄るとその石頭を額に叩き付ける。石頭をアピールしてから頭突きを使う。こうして自分をアピールする方法も長年の前座生活で知らず知らずのうちに身に付いていた。片足を上げ勢いを付けさらにもう一発、一本足頭突き。アレンがもんどり打って自軍のコーナーに引き下がり、マードックにタッチを求めた。
あえて見せ場を
作ってくれたのだ…
アレンからタッチを受けマードックが出て来る。マードックとは何度か対戦した、"手が合う"相手だ。まるで会話をするかのように攻防を繰り広げる。
フジワラ…
ピーターから聞いたぜ
オマエが"やる"らしいな?
何のことだ…?
あのバカのことさ
…ローンホークか
なぜお前たちでやらない
控室でやっちまえよ
アレンだっているだろ
アレンはやらない
なぜだ…?
同じ色の人間は傷付けたくない…らしい
マードック…お前は?
イタズラするだけでhappyだ
痛めつけるのは趣味じゃない
"やる"のはお前しかいない…フジワラ
「10分経過」
リングアナのアナウンスが聞こえる。
頭の上に
セルリアンブルーのマットが見えた…
気付くとブレーンバスターの態勢で高々の持ち上げられていた。
10秒20秒…
マードックの得意技、超滞空ブレ―ンバスター。やがて、ゆっくりと頭からマットに突き刺さり、全身に衝撃が走った。マードックが覆いかぶさりフォールに入る。
1…
2…
高橋がマットを叩く。
3…
返すことなく3つ目が入り、試合は終わった。
頼んだぜ…フジワラ
マードックが「二ヤリ」と笑った。
1983年9月18日小田原自工特設リング
"会社"全体にいやな空気が漂う中でも巡業は続いていた。この日は、関東西部…小田原での試合だ。会場に到着すると、控室のドアに「今日のカード」が張り出されていた。自分の名前を探す。
『第5試合 星野・藤原VSローンホーク・寺西』
対戦カードは、坂口さんと高橋によって決められていた。星野さんはレスラーとしては小柄だが、向こうっ気が強いケンカ屋だ。その昔、まだ反日感情が残るアメリカ各地を渡り歩いて来ただけあり、肚も座っている。星野さんとのタッグで組まれたローンホーク戦は、つまりそういうことだろう。
この試合で
"やれ"…
どこからか虫の鳴き声が聞こえてくる。所々に水溜りがある原っぱにリングが組み立てられていた。
小田原の試合会場は、屋外の特設リングだった。特設リングで行われる地方巡業の、まるで年に一度のお祭りのような雰囲気は決して嫌いではなかった。
客入り前のリングで練習を始める。秋が近付き夕暮れの風は、少し涼しくなっていた。陽が沈み、リングがライトに照らされる。
カーン…カーン…カーン!
18時30分。お祭りの始まりを告げる一番太鼓のようにゴングが打ち鳴らされ、第一試合で対戦する若手の二人が客席の中を走ってリングに向かう。初めて見る本物のプロレスラーに目を輝かせる少年、あるいは力道山時代からプロレスを見てきたであろう老人が品定めするかのように二人を見ていた。
期待と興奮の高まりを感じながら、本来は会社の会議室である控室でパイプ椅子に腰掛けじっと目を閉じていた。ローンホークの実力はすでに見切っている。何の恐怖も緊張感もない。ローンホークのパートナーである寺西さんもすでに何かを感じ取っているはずだ。もし観客に見せられないような試合になった場合、寺西さんが終わらせるだろう。
「藤原さん…出番です」
山崎が呼びに来た。第4試合が終わったようだ。
「おう…」
羽織っていたジャージを脱いで通路に向かう。星野さんが待っていた。気合が入りすでに臨戦態勢だ。やはり高橋から何か聞いているのだろう。通路のドアが開く。ライトに照らされたリングに向かう。ローンホークと寺西さんが待ち受けるリングに上がった。
「フジワラ~!」
TVの影響は絶大だった、会場で名前を呼ぶ声が聞こえたのは初めてと言ってよかった。リング中央で4人が向かい合う。
リングを照らすスポットライトに、虫が集まり始めている。高橋が意味深に「二ヤリ」と笑うと、夜空にゴングの音色が響いた。お祭りは、これからが本番なのだ。
ひんやりした風が
吹き抜けた
星野さんがコーナーに控える。敵チームは寺西さんが先発だ。最近はジュニア・ヘビー級で闘っているが、なかなかのテクニシャンでもある。
リング中央でがっちり組み合う、ロックアップ…これで寺西さんに対しては悪意がないことが伝わっただろう。
寺西さんのヘッドロック。ロックが浅い。ポンと背中を叩き、ロープに振る。返ってくるとそのままの勢いで肩からタックル。がっちり受け止める、肉体がぶつかり合う鈍い音が夜の闇に響いた。もう一度、寺西さんが自らロープに走る。返ってきたところに、ボディ目掛けて頭突きを放つ。
だが、寸前のところでかわされた。寺西さんが「危なかった」と言いた気に、ほっとしたような表情を浮かべる。頭を指差し「にやり」と笑うと、会場が沸いた。TV中継で、石頭が全国に知れ渡っていた。もう一度ロックアップ、今度は逆にヘッドロックを決める。ロープに振ろうとするが付き合わない。さらに締め上げそのままコーナーまで引きずり、星野さんにタッチ。寺西さんをコーナーポストに叩きつける。コーナーポストを背にした寺西さんに星野さんがボクシング仕込みのジャブ。カットしようとリングに入ろうとするローンホークの前に、高橋が立ちはだかる。リングに入らせず反則カウントを取りだした。
1…2…
その隙に寺西さんを羽交い絞めにして、星野さんの攻撃が続く。ローンホークが高橋にクレームを付ける間にも、ノータッチのまま入れ代わり立ち代わりで二人掛かりの攻撃。高橋が気付いてこちらにやって来ると、ローンホークは再びリングに入ろうとするが、またしても高橋が阻止。高橋が反則カウントを取る。
1…2…
コーナーポストにもたれ込んだ寺西さんに二人掛かりで殴る蹴る。
3…4…
ローンホークが怒鳴りながらエプロンに戻る。相当苛立ってきている。
そろそろ遊んでやるか…
高橋がやってくると、星野さんもエプロンに戻った。寺西さんと向かい合う。エプロンではローンホークがタッチを求めていた。
よし…来てみろ
手招きして挑発するとさらに激昂し、今にも飛び出して来そうだ。寺西さんがタッチの素振りを見せ観客を煽ると、一斉に盛り上がった。観客と一緒に手を叩いて煽る。寺西さんとタッチすると、ついにローンホークがリングインした。
観客席から声援が飛ぶ。ローンホークが一目散に突進してきた。「さっ」とリングを降りて、それをすかす。リング際でロープを掴んだローンホークの怒鳴り声が聞こえる。「二ヤリ」と笑うと、観客席の声援が笑い声に変わった。リング下からローンホークを挑発する。高橋が場外カウントを取り始めた。
1…2…3…
「上れねえだろ」
手で追い払う仕草をして場外を徘徊した。高橋が激昂しているローンホークに、リング中央に行くように指示するがそれを聞かない。ローンホークの反則カウントを取る。
1…2…
ローンホークの怒りは高橋に向かっている。その隙にリング下に降りてきた星野さんと、二人掛かりで足を掴み場外に引っ張り出した。場外乱闘だ。ローンホークをロープに振るように、場外フェンスに叩き付ける。フェンスにもたれ掛かかったローンホークの頭を掴んで、コーナーポストにぶつける。
怒ったローンホークが反撃してきた。首を掴まれ、逆にコーナーポストに頭を打ち付けられる。だが、決して痛い素振りは見せず、頭を指差し「二ヤリ」と笑うと、観客席から拍手と歓声が沸き起こった。あ然としているローンホークの背後から、星野さんが客席から持ち出した椅子で背中を一撃。高橋が場外カウントを数え始めた。
1…2…
寺西さんがリングに入る。リングを降りて助けに来るのではなく、高橋の気を引くため、あえてリングに入ったのだ。高橋がカウントを止め寺西さんと絡みだす。
やはり
わかっている…
その間にも、場外ではローンホークへの攻撃を緩めない。
羽交い絞めにしたローンホークの腹を、星野さんが椅子で突く。高橋と寺西さんが怒鳴り合っている。観客席はこの大会で初めての場外乱闘に沸いていた。
片膝をついたローンホークに左腕でヘッドロックを決めると、右手で顔面を覆う。
クロ―にしか
見えないはず
一瞬…ローンホークが驚いたように大きく目を見開いた。
星野さんが笑みを浮かべている。
お前…
やったな
ヘッドロックを必死で振りほどきローンホークが立ち上がる。その顔は心なしか青ざめて見えた。
おそらく
誰一人
気付いてはいないだろう
星野さん以外は…
もはやローンホークから闘争心は失われ、その足は控室につづく通路へと向かっていた。
1983年9月21日大阪府立体育館
"会社"に嫌な空気が漂っていたシリーズが、ようやく終わろうとしていた。TVマッチに出たおかげで、最近ではどこの会場でも少しは声援が飛ぶようになった。だが、それで強くなれるわけでもない。有名になりたいのではなく、強くなりたい…何より練習が好きなのだ。
「あいつ…大使館に駆け込んだらしい
殺されるってな」
練習を終え控室にいると、高橋が声を掛けてきた。
「職業を聞かれ
プロレスラ―と答えて
追い返されたってよ」
控室に二人の笑い声が響いた。ローンホークはリングに戻ることなく、結果はプロレス界では初めてと言っていい"試合放棄"という裁定になった。
メインイベントの"社長"と木村さんの試合は、ひと月前の田園コロシアム以上に凄惨なものとなり、腰を負傷してほとんど動けなかった木村さんに対し一方的な攻撃で、再び血の海に沈めた。
なぜ"社長"は
二度までも
木村さんを…?
その謎が解けたのは翌日だった。
1983年9月22日福生市民体育館
シリーズ最終戦とはいえノーTVのこの日は、大阪大会のおまけのようなものだった。
「"社長"が呼んでます」
試合が終わり控室にいると、"社長"の付き人である高田がそう言ってきた。
何か怒られるのだろうか
心当たりはなかった。おそるおそる控室に行ってみると"社長"はにやにやと笑っていた。どうやら機嫌は悪くないようだ。付き人時代からの習性で、その日の気分には敏感だった。
「星野から聞いたぜ…」
「…」
「お前、ローンホークの目を突こうとしたらしいな」
やはり、星野さんだけは見抜いていた。
あの試合で
クロ―のように見せかけ
親指で目を突こうとしていたことを…
「本当なら俺があいつを"やる"はずだったんだ…大阪でな」
そ、そうだったのか…!?
「ところが誰かのせいで帰国したおかげで
木村に出てもらった
木村の野郎…歩くのが精一杯だったらしいが
よく出てきたもんだぜ」
"社長"は、大阪の木村さんとの試合のような流血戦を、ローンホークを相手にやるつもりだったのだ。
「木村の…あのプロ根性は見上げたもんだぜ
お前も、あとで挨拶しておけよ」
いや…そうなれば流血戦どころか、かつてグレート・アントニオを潰したような、さらに凄惨な試合になっていたに違いない。
小田原の試合は
ローンホークを潰したどころか
むしろヤツを救ったのかも…
その、4か月後…
1984年2月3日札幌中島体育センター
控室でストーブにあたっているとレフリーの高橋が、卑屈な笑みを浮かべやって来た。
「やってもらいたい仕事がある…」
「?」
「…長州を襲ってくれないか」
その男…藤原につき
『その男、藤原につき』完
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試合結果は「プロレス試合結果データベース(https://prowrestlingdata.com/)」より
※断るまでもなく、この物語は小説という創作物です。当然フィクションであり、事実とは異なります