少女の成長を描いて ~『電脳コイル』と『ペルセポリス』
※『ビランジ』21号(2008年3月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。
2007年を代表するアニメの1つにNHK教育TVで連続放送された『電脳コイル』がある。これまで数々の作品、『新世紀エヴァンゲリオン』や『機動戦士ガンダム0080』等に参加し、作画や設定と職域を越える活躍をして来た俊英、磯光雄の初監督作品。磯光雄は原作、脚本、監督でクレジットされている。業界内で知る人ぞ知る才能の持ち主が、いきなりTVのシリーズ物の監督に大抜擢という図は、かつて同じNHKの連続アニメ『未来少年コナン』で初監督を務め上げた宮崎駿の登場時を思わせる。
物語は、電脳メガネというアイテムによって電脳世界に直接アクセス出来るようになった近未来、架空の地方都市・大黒市を舞台に、ヤサコこと小此木優子と、イサコこと天沢勇子という2人の「ゆうこ」をヒロインに描かれる。
ノスタルジックな面影を残す大黒市の佇まい。ヤサコたち中心人物の年齢が小学6年生という、子供と大人の狭間にあること。特にシリーズ初期にコイル電脳探偵局という集団の活躍が生き生きと描かれたこと。シリーズ中盤のSFマインドに満ちたイリーガル三部作の存在。等々から本作を良質なジュヴナイルとして、またかつて『タイムトラベラー』等の秀作を生み出したNHK少年ドラマシリーズの再来として見ていた層も、私を含め多い。また、作品内に専門用語を散りばめ、数々の謎を含みながら展開する先の読めないストーリーは、かつて社会現象を巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』をも彷佛とさせる。
終盤、ドラマはヤサコとイサコの2人に焦点を絞って展開して行く。
現実世界に抜け殻のような黒い電脳体を残したまま電脳世界に取り残されたイサコ。精神がこちらの世界に戻って来なければ、それは現実世界では死と同等の意味を持つ。同様の危機を体験したヤサコに向かって母は静かに諭す。電脳メガネの使用を止め、生きている世界、この手で触われる、あったかい世界へ戻って来なさいと。母の言葉は愛情に溢れ、見る者の心を打つ。ヤサコも一旦はその言葉を受け入れ、従おうとする。電脳メガネをかけている時だけ目に見え、手で触れることの出来る電脳犬デンスケ、電脳世界でのヤサコの危機を救い、電脳生命を終えたデンスケは現実のものではないのだと思おうとする。しかし、抑えることの出来ない胸の痛みに導かれるようにヤサコは母の言葉に背いて電脳メガネを装着、自らの意思で再び電脳世界へ赴く。今、本当にここにあるものを求めて。
母の言葉はそのまま磯監督の、現在を生きる子供たちに贈るメッセージであるだろう。ゲームやアニメ等の液晶画面の中の世界、メールやインターネットで交わされる言葉や情報だけでなく、現実世界の中で体験を重ね、自分にとっての真実を見つけて欲しいとの。主人公を12歳の小学6年生、そして何度も電脳世界の危機にさらされる5歳の妹を設定した意味はそこにあるだろう。
しかし、磯監督は同時にこの『電脳コイル』がアニメであることの意味をも問いかける。現実には触れることもその中に入り込むことも出来ない二次元の世界で展開する物語、それは真実ではないのだろうかと。
ヤサコは再び戻った電脳世界でデンスケに出会い、その体を抱き締めて、先に言えなかった別れの言葉を告げる。「デンスケの体、温かかったよ。毛並がふわふわしてた」というヤサコの言葉はそのまま、本当は存在しない、手に触れることの出来ないアニメ世界の肯定として私には聞こえる。この世界を仕事として選んだ者の、高らかな自負と誇りの言葉として聞こえる。更に広げて解釈するなら、SFやファンタジーといった創作の世界そのものの肯定としても。
こうして、現実世界も仮想世界も、共にあるがままに受け入れたヤサコは迷わずイサコの救出に向かう。優しい兄、だがとうに死んでしまった兄との心地よい思い出に満たされた子供時代で形成された電脳空間に閉じ籠り、永遠の子供として過ごそうとするイサコの心にヤサコは呼びかける。「イサコのイサは勇ましいの勇。戻って来て、イサコ!」。
ヤサコの呼びかけに崩壊し始める電脳空間を、胸の痛みを頼りに、痛みのある方へと歩むイサコ。少女から大人へ。迎える現実世界は心地よいことばかりではなく、様々な痛みと苦しみに出会うだろう。でも、それでも、自分の力で現実を受け入れて進もう。そうして迷った時、立ち止まった時、力になってくれるのは、同じ人間である現実の友達、現実の仲間の存在だと。人と人は心という細い道でつながっているのだと。監督の確信が伝わって来る。
同時に、作り手と受け手が共犯関係にあって共に甘い夢を貪っているような感覚を覚える昨今のアニメ界で、誰かに、取分け年若い子供たちに向けて言葉を発することの困難さと重要性を思う。高所からの説教ではなく、アニメ界という一種の虚偽の世界に身を置く自分の立場を理解しながら、それでも心からの言葉を発することの大きさを感じる。
それにしても、よくもここまで辿り着いたものだ。終盤、明らかに残り話数が足りなくなり駆け足な展開になってしまったこと。ヤサコとイサコの関係に焦点を絞るあまり、フミエやダイチ等のキャラクターがほぼ退場状態になってしまったこと。最初あれほど魅力的だったコイル電脳探偵局の設定が上手く生かし切れなかったこと。等々、残念な点は幾つもある。最終回に「切なくて、悲しくて、ちょっと苦しい気持ち・・これって初恋かな」という名セリフがあるように思春期の少年少女の物語としても見たかったと思うし、エピソードとしては申し分ない出来だけれど、中盤のイリーガル三部作の分を本題に使っていたなら等、ストーリー構成上の見通しも惜しまれる。
しかし、全話を見終わって改めてその主題歌の歌詞を聞き、エンディングを見直すと、当初から作品に込められていた意図が納得され、やはりよくぞやってのけたと思えるのだ。
これが監督第1作の磯監督。次はどんな作品を見せてくれるのか。彼ならではの世界を構築する引き出しもまだまだ多そうだ。今からその日が楽しみでならない。
NHK教育TVでは最終回翌週から続けて第1話からの再放送を始めた。好評を受けてのことだろうが英断と言える。再び見返すことによって用語もより理解され、見落としていたピースがつながる発見もある。
様々に発展する要素を含みながら、ひとまずは少女の心の成長物語として収束した『電脳コイル』。切ない主題歌と共に、今しばらくこの世界に浸ろう。
一方、『ペルセポリス』は、イランに生まれた一少女の字義通りの成長を追う長編アニメーション。70年代から近年までの激動するイランの変遷を織込みながら、様々な事象に葛藤しつつ歩む少女の、幼時から23歳までの半生を描く。
監督のマルジャン・サトラピ(フランスのヴァンサン・パロノーとの共同監督)自身の自伝的グラフィック・ノベルが原作。とにかく見ている間じゅう圧倒されっ放しだった。
王制打倒の革命の波に揉まれた少女時代。変化するイランの体制と政治状況に翻弄され、肉親を政治犯として国家に奪われながら、闊達な悪戯心と反抗心を失わずに育つマルジ(マルジャンの愛称)。彼女の身を案じた家族の勧めで10代でイランを出てヨーロッパへ留学。故国へ思いを馳せ、自らのアイデンティティと周囲の軋轢に悩みつつ、少女から大人の女性へ脱皮する日々。手痛い失恋と放浪。身も心もぼろぼろに傷ついての帰国。うつ病。服薬自殺未遂。女性への抑圧が増す中での結婚と破局。あらゆることの果てに自分が何者であるかをつかみ、今度こそ本当の自分自身の為に再びイランを旅立つマルジ。
激動のイランを主な舞台に綴られるストーリーは、ドキュメンタリーとはやや異なる。短編ならともかく、こうしたタイプの長編アニメは見たことがない。アニメーションでこんなことが可能なのかと目を開かせられる。
ここではアート系の作品にしばしば見られるようなアニメート(動き)そのものが目的ではなく、あくまでもストーリーを語る手段としてアニメーションが採用されている。にも関わらず、アニメーションという手法が持つ抽象化と象徴性の利点がよく生かされていることにまた驚く。飛躍と省略も程よく利いており、動きに破綻もない。滑らかに自在な画面転換。シンプルな線画のキャラクターが見せる豊かでヴィヴィッドな表情。モノクローム、パートカラーの画面は抑制が利いて、しかも鮮烈に効果的だ。宗教的なものではなくもっと大きな存在としての神との対話もある。粛正の血と戦禍に彩られながら画面はどぎつくなく淡々と、炎を内に秘めながら綴られる。ずっしりと重い手応えの物語であるにも関わらず、政治的主張や体制の告発ではなく、語り口はユーモアを交え、適度な客観性を備えた視点も賢い。1人の少女の物語であることを徹底することで却って国籍も何もかも越えて普遍的な女性の物語へと高められているのだ。実写という夾雑物を除いた、アニメーションならではの映画というべきだろう。製作国フランスの豊かな伝統に連なることを確かに感じさせる知的でエレガントに美しいアニメーションだ。
空港で「どこから来たか」と尋ねる声に「イラン」と答えるマルジの声でストーリーは終わる。幼いマルジと今は亡き祖母の会話が繰り返され、エンディングのスタッフロールを祖母の思い出につながるジャスミンの小花が舞う。ここに至って観客はオープニングでスクリーンを舞っていた小花に込められた意味を知る。見事な終わり方と思う。重厚な音楽もまた効果的だ。
主人公マルジはもちろん、彼女の肉親たちもそれぞれに魅力的だ。心から国を憂い、怒り、マルジをいっぱいの愛情で包み育てる父母。マルジに折々に人生の真実を、時に真摯に、時にエロティックなユーモアを含んで語ってくれる、お洒落心と進歩的な精神を持ち続けた祖母。マルジを1人の人間として接する反政府主義者のアヌーシュおじさん。
声の出演もまた魅力的。幼いマルジを演じる少女ガブリエル・ロペスの巧みさ。マルジの母を大女優カトリーヌ・ドヌーヴが、そして成長したマルジを、ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニの実娘キアラ・マストロヤンニが演じ、祖母の声は、ドヌーヴと母娘役での共演も多いダニエル・ダリューが演じている。魅力的な声音のセリフの合間にふと彼女らの顔が思い浮かぶのもまた格別な味だ。
我々がほとんど知ることのないイランの市井の人々の、驚くほど都会的で知的な暮らし。女性たちの洗練された服装。当局の目を逃れて開かれる秘密のワインパーティー。女性に対する抑圧の強さと、その象徴であるヴェールの下で息づく女性の本音。ヴェールを被りながら男性に伍して美術を学ぶ女学生がいることも初めて知った。
迷い、過ち、クスリも自殺未遂もするマルジャンは現代に生きる等身大の人間であり女性である。私自身、都会生活に傷ついて帰国するマルジの姿にかつての自分を見るようで胸が痛んだ。おそらく、現代に生きる多くの女性が、どこかに自分を重ね合わせて見ることと思う。スクリーンに映るありのままの女性としてのマルジを見ていると、アニメのキャラクターとは何だろう、人間を描くとは何だろう、とさえ思えてしまうのだ。必見の映画である。
※初出:『ビランジ』21号(2008年3月発行、発行者:竹内オサム)、noteの表示に合わせ年号などを半角に改めた。
※『電脳コイル』2007年5月~12月、NHK教育TV放送、全26本
監督=磯光雄、キャラクターデザイン=本田雄、制作=マッドハウス
※『ペルセポリス』Persepolis
2007年、95分、フランス、日本公開2007年12月
原作=マルジャン・サトラピ、脚本・監督=マルジャン・サトラピ、ヴァンサン・パロノー
現在の海外アニメーション界で大きな潮流となっている、歴史的事実や個人の体験を元にした「ドキュメンタリー・アニメーション」の嚆矢である。台湾の長編アニメーション『幸福路のチー』(2017)のソン・シンイン監督もその影響を語っている。原作は公開当時はグラフィック・ノベルと称されたが、現在はバンドデシネとも言われる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?