真摯な姿勢から立ちのぼる香気『マイマイ新子と千年の魔法』

※『ビランジ』25号(2010年3月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。

 『マイマイ新子と千年の魔法』は、話題作の多かった2009年の掉尾を飾る作品だ。
 宣材の絵やキャラクターからはどんな映画になるのか正直見当がつかなかった。いわゆる名作ものの雰囲気を感じさせるのだが、それだけではなさそうな感じがした。
 前情報を入れずに見てみたら、これがとても佳い映画だった。良い意味で印象を裏切ってくれる映画だ。久々に大人の作ったアニメ映画を見たと思った。

 原作は高樹のぶ子の自伝的小説『マイマイ新子』。元は『クロワッサン』誌の掲載というから、はなから子供向きという訳ではないのだ。観賞後に、映画は原作をベースに自在に組み直していると聞いた。山口県防府市を舞台に、新子たちの生きる昭和30年代と、新子が想い描く千年前、平安時代のこの地にあった周防の国の人々とが画面上で溶け合うように描かれて行く。
 一面の麦畑の中に、新子の想像力が生み出す古の人々の暮らしが優れたCG技術によって生き生きと動き出す。すっかりこなれたCG使いに、21世紀の今、この映画が作られて本当に幸運だったと思う。新子たちの頬の赤味など今でなければ出来なかったことだろう。映画のファーストカットは鏡台にかけられたカバーを上げる新子の姿だが、その厚い装飾を施された布地の質感の見事なこと。さりげなく、しかししっかりと持てる技術を誇りながら、それに溺れることなく、映画は着実に誠実に物語を紡いで行く。
 かつて日本のアニメは日本製でありながら日本でない無国籍的な土地を舞台にしていることが多かった。それは制作上の都合だったり、輸出を視野に入れた選択のせいだったりもした。しかし、ある頃から明確な日本を舞台に綿密なロケハンによって現地の、あるいは既に失われた時代の様子を生かしながら世界を構築する作風が導入され、制作者側の意識や視聴者層の変化も手伝って今や、お台場、函館、鷲宮をはじめ、聖地巡礼という言葉も定着するほど普通の手法の1つになっている。
 実際の防府市を舞台にしている『マイマイ新子・・』もそうした現地ロケハンものの1つでありながら、その考証にかけられた力は半端ではない。昭和30年代の失われた風景や様々な大道具小道具、人々の暮らしぶり、そして更に千年前、平安時代のそれらまでを綿密な考証によって描き出している。千年前の遺跡の発掘調査現場の柱穴からするすると柱が伸びて古の屋敷が再現されるイマジネーションあふれる様は圧巻だ。
 そうした舞台の中で描き出される新子たちの日常。子供の世界で最も重要なものは遊びだ。毎日の遊びを主食にして心も身体も育って行くと言ってもいい。
 筆者はちょうど新子たちと同じ昭和30年代を子供として過ごした。だから、ヒバリがさえずる一面の麦畑や青い空、異なる学年の男女が等しく群れて野山を駆け巡り、川の水で小さなダムを作ったり、探検ごっこに興じたり、クワの実を摘んで食べスカンポを齧る、それら1つ1つが実際に体験したこととして胸に響く。新子たちが読む本や雑誌の表紙、カルピス、シャボン玉、ラジオ劇、紙芝居、氷を入れて冷やす冷蔵庫、蛍の舞い飛ぶ夏の夜、すぐに電池が切れてしまう懐中電灯まで、そのどれもが懐かしい。小さなボトルの形をしたウイスキーボンボンの薄い銀紙を剥く時のかすかな音など、余りの再現度に涙が出そうになった。それら全てから確かな実感を伴って新子たちが生きた時代が立ち上がって来る。アニメーションはこうした場合、とても有利だ。実写の映画でも最近は全てをゼロから作り上げることが可能になった。しかしそれらは言ってしまえば全て嘘、空言だ。しかしアニメーションは最初から絵で描かれた「絵」空事なのだから決して嘘ではなく、切実なリアリティを持つことが出来るのだ。
 しかも、これは単に昔は良かった式のノスタルジー映画ではない。清純そのものの容姿と優しい人柄で皆の憧れの的でありながら秘かな不倫の恋の果てに違う男性の元へ嫁いで行く小学校のひづる先生や、誰からも尊敬され一目置かれていた警官が実はバーの女と闇賭博に入れ込んだあげくに自殺するエピソードが示すように、美しく立派なものの影に闇があることも描いてみせる。転校生の貴伊子が良かれと思って使った母の形見の香水が彼女を教室から一人浮かせ、川で飼っていた金魚の命を奪ったように、美しいものの中に秘かに仕込まれた毒もある。
 ひづる先生と警官のことは直接には描かれず、登場人物たちのセリフで語られるだけで、にも関わらず強烈な印象を残す。子供の頃、大人の世界の事情を聞くともなく耳にして、その時はよく理解出来ないまでも、そうやって少しずつ大人の世界への扉が開かれて行った時のような実感を持って。
 新子たち皆が仲間のタツヨシの掲げた木刀に誓った輝く明日は、前述の警官であるタツヨシの父の縊死によって永久に失われてしまう。明日はずっと今日の続きだと信じていた無邪気な子供時代がいつしか終わってしまうように。そうした終わりがあることを知っていて観るからこそ、新子たちの失われた明日の約束は心に痛い。
 でも、新子は決して屈服しない。子供であることを止めない。お米を入れた一升瓶を背に家を出、タツヨシと二人で「明日の約束の敵討ち」に、原因となったバー・カリフォルニアへ乗り込む。このバーのある歓楽街の描写がまことに容赦ない。酔客にあふれ街娼や傷痍軍人が立つ猥雑な街並に、子供向けの名作ものと思って観に来た人は驚くだろう。そして二人の前でバーの女が流す涙や、ヤクザの見せる心情に胸を衝かれることだろう。一方、この映画を子供の時分に観た人は幸せだ。成長するに連れ、その折々でこれらの事情が理解されて来るだろうから。そうした意味でこの映画は万人がそれぞれの立場で観ることが出来るのだ。

 この映画のテーマは人によって様々に捉えられようが、私には「溶け合うこと」そして「つながり、受け継がれて行くもの」と見えた。新子が麦畑に千年前の都を見るように、タツヨシがバーの2階で少年時代の父親が駆け抜ける姿を幻視するように、全ては溶け合い、生命や思いは受け継がれ、確かにそこに在る。
 新子と、都会から来た少女貴伊子の心が次第に打ち解けあい、友情を育み、その輪が大きく広がって行く。その最初の触れ合いの切っ掛けの1つとなるのが、千年前と同じくこの地に咲くウツギの花枝。ポスターで新子が頭上にかざす白い花枝である。映画では千年前と新子たちの時間がこのようにあちこちでつながり溶け合って行く。それを象徴しているのが千年前と変わらず流れる掘割りだ。
 そしてまた千年前に思いを馳せる新子のその考えは地理歴史に詳しい祖父から受け継いだものである。そんな新子の想像力に感化された貴伊子はやがてそれまで新子と一緒でなければ見ることの出来なかった千年前の都へ古の姫の体を借りて飛ぶ。そして友と遊ぶことを願っていた姫は屋敷の従者の子らの助けによってついに願う少女と出会い、共に遊び興じることが叶う。千年前の姫も少女も、新子も貴伊子も、学友たちも、新子の祖父も、貴伊子の亡き母も、タツヨシの父も、死んだ金魚のひづるも、全てが溶け合い、つながって、この大気の中に在る。
 用水にいよう筈もない金魚のひづるは千年前の姫が友を恋うて流した赤い切り紙が生まれ変わったものと素直に信じることの出来る自分は、そうした万物が生命を持つという文化が息づく日本に生まれたことを嬉しく、誇りに思う。
 ラストの新子の引越しは原作には無い事柄という。これを入れたことで、新子から貴伊子へという「受け継がれること」が一層はっきりした。ここで映画の語り手が新子から貴伊子へと移り、その構成がこの映画が継承の物語であることを明瞭にしている。車で引越す新子を見送る貴伊子の話し言葉は既にこの土地のものに染まりつつある。やがて今度は貴伊子の口から千年前の都の話を聞く子が出て来るだろう。彼女らの子供たちにもそれは口伝えられて行くだろう。
 最後の秋を過ごす祖父と新子を取り囲む彼岸花と、頭上を飛ぶ沢山の朱鷺たち。この美しい、日本のどこでも当たり前に見られた風景から我々は遥か遠くまで来てしまった。しかし思いは途切れない。やがて失われてしまうものであったとしても、子供の頃の経験や思いは心の奥にきらきらと輝く宝物となって、その人生を支えるのだ。子供たちの遊びもその遊び様も新子たちの頃とはすっかり変わった。「遊ぼうよう」という古の姫(実は清少納言の幼い頃の姿である)の呟きも、「遊ぼうや」という新子の呼びかけも、実は時を超えて今現実の子供たちへ向けて発せられているのかも知れない。

 アニメーションとしても、これはその丁寧で上品な画面作りで、政岡憲三さんから森やすじさん、小田部羊一さん、宮崎駿さんへと連綿と続く、日本のまんが映画の佳き系譜を受け継ぐものであると言えるだろう。
 作画の繊細さ、細やかさは感嘆するばかりだ。昨今主流の凝った画面作りに背を向けるかのように素直すぎる程シンプルなキャラクターが見せる表情の多彩さ。本作の重要な要素である水の描写の的確さと美しさ。用水路に落ちた新子が見上げる水面を、新子だけに見える想像上の人が駆け抜けて行く場面の清新さは殊に素晴らしい。
 初めてこの土地に降り立った貴伊子の髪がそよ風に柔やわとなびく様は、名アニメーター小松原一男さんの生前最後の仕事となった『メトロポリス』の主人公ティマのそれを思い起こさせ、時を超えて継承されるアニメの魂が宿っているようで一際感慨深い。キャラクターデザイン・総作画監督の辻繁人さんは小松原さんと同じオープロの人である。
 美術も澄んで美しく、色彩設計の上品さは例えようもない。都会から来た少女である貴伊子の服装の1つ1つのそれらしい品の良さ、繊細な色遣いに感嘆する。風をはらんで揺れるスカートと、白いペチコートには惚れ惚れと見とれてしまう。画面の1つ1つが宝物のように輝いて見える。周到に工夫された画面作りと色彩設計には既に失われたセルの趣きさえ見える。
 スキャットを多用した音楽も新鮮な魅力がある。最初見た時は新子の話すセリフと重なって冒頭やや聴きづらくもあったが、2度目に見たらすっかり耳馴染み落ち着いて聴こえた。
 また特筆すべきは、新子の妹をはじめ子供たちの声の実に生き生きとしていること。泣きじゃくりながら喋る妹や、サイコロを振って独り遊びに興じる姫の演技にはぞくぞくした。妹は松元環季、姫は森迫永依。どちらも天才子役ではあるが、この演技を引き出した演出力はただ事ではない。新子の祖父を演じるベテラン声優、野田圭一の落ち着いた威厳ある声もまた素晴らしい。

 日本のアニメは需要供給の関係もあって、このところアニメファンが長じたクリエーターが自分と同等の趣味嗜好を持つ層に向けて作る傾向が強まっていた。それを決して悪いと切り捨てたりはしないけれど、それでもやはりそれだけではないものも見たかった。最近では原恵一監督の『河童のクゥと夏休み』といった傑作も生まれてはいるけれど、やはりもっと後に続く作品が出て欲しいと願っていた。近年の宮崎駿作品はその出来映えには賛辞を惜しまないけれど、どこか奇妙な思いが湧くのも禁じ得なかった。この『マイマイ新子と千年の魔法』にはきちんと背筋を伸ばした制作陣の姿が見える。大人として堂々と観客に語りかける力を感じる。片渕須直監督の真摯な姿勢が光る。
 12月半ば現在、興業は既に終了した所も多く、入りも芳しいとは言えないものに終わりそうだとも聞く。それ自体は残念なことだけれど、この映画は映画館での興業が終わった後もなお長い生命を保つ作品となって残るだろうと確信する。出来得れば、学校等を巡回して多くの子供たちに見て欲しい。必ずその後の人生を支える1本となることだろう。

 付記。その後、上映延長を要望する署名運動がネット上で行われ、1月現在、東京の一部では異例のリバイバル公開が始まった。レイトショーという形ながら連日大入りと聞く。喜ばしいことだ。

※初出:『ビランジ』25号(2010年3月発行、発行者:竹内オサム)
※『マイマイ新子と千年の魔法』2009年11月公開、脚本・監督=片渕須直

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