人形アニメの新時代 意欲作続々公開
※『ビランジ』42号(2018年8月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。人名の敬称は略しています。
昨年公開のスタジオライカの傑作『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』も記憶に鮮やかな中、今年に入り、人形アニメ(ストップモーション)の意欲作が次々と公開されている。デジタルで人形アニメの風合いを出すことも可能な3DCGアニメの隆盛に押されて、人手も時間もかかる人形アニメは一時期影が薄くなっていたものだが、ここへ来て勢いを取り戻したようで喜ばしい。
2017年11月の『KUBO/クボ』の公開に続き、2018年2月にはクロード・バラス監督がジル・パリスの原作を映画化した『ぼくの名前はズッキーニ』、5月には実写とアニメを往還する異才ウェス・アンダーソン監督の異色作『犬ヶ島』、7月にはイギリスの老舗アードマンスタジオのオリジナルクレイ長編『アーリーマン~ダグと仲間のキックオフ!~』と、タイプの違う長編人形アニメが続けて公開、それぞれに話題を呼び高い評価を受けた。
『ぼくの名前はズッキーニ』はスイスのクロード・バラス監督による長編。2017年の東京アニメアワード長編コンペで優秀賞を受賞した際の題名は『ズッキーニと呼ばれて』。往年の名作劇場を彷彿させる良心作だ。
誤って母親を死なせてしまった9歳の少年を主人公に、彼が保護された小さな施設での日々を描く。ズッキーニとは主人公の少年の呼び名(本名はイカール)で、オリジナル版ではコージェット。ネグレクトで酒びたりの母親に付けられた、愛称というよりも蔑称に近い仇名だが、彼はこの呼び方を母親と自分を繋ぐものとして大切にしている。
施設の子供たちは、リーダー格の少年シモン、ズッキーニの初恋の少女カミーユをはじめ境遇はシビア。強盗や薬物中毒、性的虐待、無理心中、不法滞在による強制送還などで家庭という居場所を失った子供たち。彼らは心身に傷を負い苦しんでいる。それは現実社会の映し鏡でもある。しかし、彼らの境遇が直接的に描かれることはなく、必要以上に深刻にはならない。ズッキーニの母親の事故の場面(原作から変更されている)も含め、抑制の利いた演出だ。
子供たちは、その傷ゆえに他者の心にも敏感で、小さないざこざはあっても肩を寄せ合って暮らしている。養護施設フォンテーヌ園は彼らにとっての小さな世界だ。バラス監督は施設を一種の理想化されたシェルターとして描く。その目は彼らに公平に注がれ、この繊細な物語を通して私たちは彼らが大好きになる。彼らの日々が幸せであってほしいと願う。やがて成長して施設を出る日が来ても、彼らのこの先の人生に幸あれと願わずにはいられない。
彼らが施設のレクリエーションでスキー旅行に行った際のエピソードは忘れ難い。楽しく遊んでいても視線の先には周囲の母子連れが映る。睦まじい母子を無言で見つめる彼らからカメラがゆっくりと引くカットのもの悲しさ。しかし、決して「可哀想」だけには描かない監督の目が好ましい。施設の子をゴーグル泥棒と疑った母親に連れられた女の子は去り際にさり気なく相手の子に当のゴーグルを渡してくれる。可愛いウインク付きで。このカットの心理的救済効果は絶大だ。どんな境遇でも、どんな目にあっても、きっと分かってくれる相手はいると、この世は捨てたものではないと伝えてくれる。
ズッキーニを気遣う警察官レイモンや、施設の女性院長、先生たちは皆、心ある大人として描かれていて好ましい。院長の容貌は高畑勲作品『アルプスの少女ハイジ』のロッテンマイヤーさんを思わせるが、高畑監督に影響を受けたというバラス監督の思いの反映だろうか。(そういえばカミーユは高畑監督作『母をたずねて三千里』のフィオリーナに似ている)。物語の終盤では、ポール先生とロージーのカップルに赤ちゃんが誕生し、子供たちはその子を通して自分たちが失ってしまった愛情が確かに存在することを確認する。このエピソードは温かく胸に響く。
否定されるべき人間として登場するのがカミーユの叔母。私欲にかられた彼女は、本作の頭身の低い人形の中でも特にカリカチュアライズされており、けばけばしいメイクに派手なミニスカートという出で立ち。階段を上るショットでは黒いレースの下着さえ覗く。(男子が一斉にオエーッとして見せるコミカルショットだが)。人形アニメでは珍しい描写でありキャラクターだ。
人形アニメはこのようにひとつの象徴としてのキャラクターを作り出すことに長けたジャンルだ。ズッキーニたち施設の子供も、その境遇をもしも実写で描いたならつらくて目を背けたくなるだろう。あるいは逆に子役の演技としてリアリティを失うかもしれない。人形だからこそ一種の結晶化したキャラクターが可能になる。人形アニメだからこそ可能な世界。それが『ぼくの名前はズッキーニ』だ。この物語を人形アニメで作ったのは正解だ。
子供たちが主体の物語だが、決して子供だけに向けた映画ではない。落ち着いた色彩に、音楽も洒落て大人っぽい。誰もがそれぞれの立場で向き合うことが出来る映画になっている。
人形の顔は原型を3Dプリンターで出力。眉や口のパーツはマグネット仕掛けで顔面に張り替えてアニメートが可能。訴えかけるような大きな目は顔の内側から嵌め込まれ、直接動かして微妙な視線の表情がつけられる。二頭身もないようなユニークなプロポーションも表情を強調するためという。作り手ごとに様々な工夫が凝らされて新たな表現が広がっていくのが頼もしい。印象的なのは目の周りに施されたクマ。それは彼らが心に抱える影のように見え、深みを与えている。人種的特徴を細心に取り入れたデザインには、いかにもそのキャラクターらしい性格が重ねられている。彼らの息遣いさえ伝わるような細やかで手作り感あるアニメートも効果的で、次第に人形を超え、実在するその人そのものに見えて来る。
子供たちの声はオリジナル版では同年代の子供たちが演じている。とてもその子らしい声で、プレスコ(音先行)で録られた演技にもリアリティがある。日本語吹替え版ではズッキーニを峯田和伸、カミーユを麻生久美子など大人の役者が演じていて、悪くはないのだけれど、やはり実際の子供の声の現実味には及ばない。
この作品で特に心惹かれるのが画面上の小物たち。例えば冒頭でズッキーニが並べて遊んでいる空き缶。それは手作りの感触を残してひとつひとつ微妙に形が違う。ただの機械的に量産されたモノでなく、温かみがあり、生き生きとした小道具になっている。ズッキーニが母の形見として愛おしむビール缶は、編中で彼自身の手で船に作り変えられてカミーユへ贈られ、愛情のバトンタッチがなされ、やがては彼女の窮状を救いもする。絵の得意なズッキーニが描く絵や、施設の食器や食べ物、小さな機械類などもいい。それらを作ったスタッフその人の手のぬくもりを感じさせる。現実の世界では肉親の愛に恵まれなかった子供たちだが、こんなにも温かい愛に包まれて暮らしているのだと実感させてくれて、こちらの心も温かくなる。
特に効果的な小道具が要所に出て来る凧で、ズッキーニの心模様や他者との関係を表わしている。父親の似顔絵が描かれていた凧はラストシーンではその上に施設の仲間たちの写真が貼られ、高く空を舞う。彼らの間に結ばれた絆を示して。
小鳥の巣作りや天候の変化に託して人物の心情や状況を描く演出や、手作り感あふれ愛らしくさえある美術セットも映画に独特の柔らかい雰囲気を与え、世界を形作っている。
人形アニメは元になった事柄から余分な要素を削ぎ落し、必要なものだけを抽出し凝縮して見せてくれる。今にもこの手で触れそうな実感を伴って。その意味で現実よりも現実で、夢よりも夢の世界だ。
ウェス・アンダーソン監督の新作『犬ヶ島』は一風変わった作品だ。劇場のロビーで特報を見て唖然としてしまった程だ。
ウェス・アンダーソン監督は実写映画を主とするが、アニメーションとも縁が深い。『グランド・ブダペスト・ホテル』等、手がけた作品にアニメーションを効果的に入れ込んだりもしている。純粋なアニメーション映画は2009年の『ファンタスティック Mr.FOX』が近作。独特な作風は全世界で高い評価と支持を受けている。
『犬ヶ島』の舞台は近未来の日本。いきなり、締め込み姿で和太鼓を叩く男たちで始まり呆気にとられる。基本は追放された愛犬を求めて犬ヶ島に渡った日本人少年アタリと、彼が島で出会う個性的な犬たちとの友愛と冒険の物語。それをウェス・アンダーソン独特の世界観で描く。
まず、その独創的なキャラクターデザインに驚く。リアルでもあり、人形という作りものであることを意識して静物的に仕上げた風でもあり、何とも言えない独特な風合い。美しさや心地良さとはあえて逆をいくような意志を感じる。たくさん出て来る犬たちの造形にはファーが使われ、毛並が風になびく(人形アニメでは難しい)。画面からこちらを凝視してくる眼差しの強さも印象的。瓦礫に覆われた島で荒んだ暮らしを送る犬たちには臭気が立ちそうなそれらしさがある。日本が舞台なのに洋犬ばかりなのも不可思議。主人公の少年の佇まいも異様。頭には事故でボルトが刺さったままで、足には下駄を履いている。孤児であるアタリの義父・小林市長は三船敏郎をモデルとし、独自の存在感を放っている。補佐官メイジャー・ドウモの怪奇映画スター的な風貌、夏木マリが声を演じる老女の写実的な造形、ヨーコ・オノが声を演じる科学者の助手ヨーコ・オノ(同名)もいて、全体が混沌としている。
アニメートで驚くのは、犬たちが争う場面の、一昔前のギャグマンガのような、もくもくとした丸い土煙の中から頭や手足のパーツだけが時々覗くという二次元的、平面的な描写だ。それを、この作品ならではの手法としてぬけぬけと成立させてしまう力はやはり大したものだと思う。或いは、今時はデジタルを併用するのが当たり前になっている爆発の爆煙を素材である綿の質感を隠すことなくそのままアナログタッチで見せる辺り。これはもうひとつの美学と言ってもいいのではないかと思う。
主要舞台であるメガ崎市(メガサキシ)のネーミングセンスはどうだろう。メガ○○市ならともかく日本人には到底思いつかない。画面では大きく書かれたメの字とその下のガが合わさって一つの漢字のように見える。漢字を、その意味は分からずとも形だけでクールなものと見る海外の視点が感じられる。
そのメガ崎市での古の犬と人との争いの歴史を説明するのは絵巻物のような浮世絵のような、これも独特のビジュアルで、その美意識が目覚ましい。
『犬ヶ島』には、このように随所に日本を意識した表現がなされている。日本のゲーム会社からの命名か、アタリ少年など下駄を履いて瓦礫の島を歩いている。日本人が見れば不便だと思うのだが、これが海外が見るクールなのだろう。日本食の代表格である鮨を握る詳細なシーンもある。この一連のシーンはスタジオライカのスタッフがアドバイザーを務めたそうで、なるほど人形アニメートは流れるように見事なのだが、そもそも鯖を捌くのに目釘は打たないし、ワサビの使い方も怪しい。これはウェス・アンダーソン監督のイメージの中にある、東洋の神秘の国、不思議の国ニッポンなのだろう。それはそれで構わない。
思えばライカの『KUBO/クボ』もそうだったし、アニメではないが『パシフィック・リム』も、そしてこの『犬ヶ島』も、日本を舞台なりモチーフなりにしている。スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』でもガンダム等の日本カルチャーが重要な役割で出て来る。これはどうしたことだろう。思うに、2011年の東日本大震災と原発事故が世界中のクリエイターに衝撃を与え心を動かしたこと、その日本と日本の文化へ寄せるエールが時を経て熟成し一斉に表われたということではないだろうか。そうとしたら尊いことだと思う。元々日本文化はジャポニスムとして西洋に影響を与えて来た歴史があるが、ここへ来て第二のジャポニスムとも言うべき流れが起きているのかもしれない。
『犬ヶ島』で印象的なのは、アタリ少年と仲間となった島の犬たちが決起する場面に高らかに響き渡る『七人の侍』のテーマだ。それはこの風変わりなSF冒険譚が犬に姿を変えた侍の物語であることを謳っている。アタリと犬たちの冒険は他の若者を巻き込み、やがて犬ヶ島とメガ崎市にまつわる歴史と陰謀を暴き、その未来を左右する広がりを見せるのだが、そこに現実の、例えばトランプ大統領が打ち出す隔離政策などの反映も見える。優れた芸術作品は作家の意図を越えて現実との接点を持つものなのだろう。勿論、そうした目で見るだけでなく、シンメトリカルな構図をはじめウェス・アンダーソンという特異な作家の個性がワンダーランド・ニッポンを舞台に色濃く刻まれた様式美の映画として無心に味わうこともまた肝要だが。黒澤明監督作『どですかでん』の美術を意識したという犬ヶ島の情景の圧倒的に濃密な情報量だけでもスクリーンで一見の価値があるのだ。
『アーリーマン~ダグと仲間のキックオフ!~』はイギリスのアードマンスタジオの雄であり、『ウォレスとグルミット』シリーズで知られるニック・パークの新作オリジナルクレイアニメ長編。ニック・パークにとっては、何とこれが初の単独演出長編になる。
アーリーマンとは人類の祖、原始人のこと。映画は嬉しくも昔風デザインの恐竜、ティラノサウルスとステゴサウルスの戦いから始まる。往年の原始時代ものはこれが必須だったのだ。そしてエンドロールではこの恐竜たちが再登場、レイとハリーという彼らの名前も明らかにされる。言うまでもなくモデルアニメーションの巨人レイ・ハリーハウゼンへの熱いオマージュで、こちらも嬉しくなる。ニック・パークは我々と同じ魂を持つ仲間だ。
物語は副題にもあるように、サッカーがモチーフになっている。丁度ワールドカップの最中でもあり絶好のタイミング。さすがはサッカー好きのイギリス人の作る映画だ。
石器時代人のダグと仲間たちは平和に暮らしていたが、突如侵攻して来た新興勢力の青銅器時代人と住処を巡ってサッカーで対決することになる。原始的な狩猟生活を送っているダグたちと、青銅器時代人は文化が全く違い、青銅器時代というよりも現代人のカリカチュアにも見える。石器時代人の住処にある資源目当ての侵略を仕掛けて来る青銅器時代人はかつて植民地帝国を築いた大英帝国そのものにも見えるし、石器時代人を追放し封じ込めようとする様は現在のトランプ大統領の政策風刺にも見える。制作に8年を費やしたという『アーリーマン』だけに元からトランプ政権への風刺の意図があったとは思われないが、これも前述の『犬ヶ島』同様に時代とのシンクロということだろうか。
青銅器チームはサッカーの猛者が揃っており、そのサッカースタイルや解説者の顔ぶれ、女王陛下の登場なども含めてイギリス風の風刺が働いているようだ。選手はそれぞれ出身地が違い、それぞれの地域訛りの言葉を話しているとパンフレットにある。こちらでは残念にも日本語吹替え版のみの公開だったので、その辺りは全く分からないが(原語版で聞いたとしても分からないかもしれないが)いかにもアードマンならではの拘りだ。アードマンのお家芸はセリフと口の動きをぴったり合わせるリップシンクで、吹替え版だと元のセリフを想像しながらの鑑賞になるのだが、それだけでも半端ない拘りようが伝わって来て圧倒された。スタジオライカのような顔パーツの嵌め換え(&デジタルによるパーティングライン=繋ぎ目の消去)ならまだしも昔ながらのクレイによる手作業なのだから。
目玉のサッカーシーンは工夫が凝らされ、キックを繰り出すポーズなどもよく観察され再現されていて上手い。そもそも多人数の選手プラス審判がコートに入り乱れるサッカーをよくも手のかかるクレイアニメのモチーフに選んだものだと思うが非常に上手く捌いている。大量の人間で埋まった観客席はデジタルの力で増員しているようだ。デジタルは炎の描写などにも使われ、アードマンも少しずつ変化していることが分かる。ちょっと寂しい気持ちもするが、これが時代の趨勢というものだろう。ニック・パークのインタビューによると、ほぼ全てのカットでデジタルを使っているそうだが、これは人形の吊り具や支え棒の消去も含めての発言で、根本は昔ながらのクレイアニメだろうと思う。アードマンの映画は大掛かりなセットも有名だが、この『アーリーマン』でも雄大な原始時代の風景や大勢が入り乱れるサッカー場など、その大きさを容易に想像させる。ライティングも巧みで、ナイトシーンの色彩もとても美しい。
人形の基本は昔ながらのクレイ(粘土)。そこへ髪を植え、ファーの衣服を纏わせてある。これだけでも何となく今までとは違う気がするが、ダグの相棒であるブタ(というより見た目はイノシシ)のホグノブは顔と四本の足以外は全身を毛に覆われてクレイ感はその分薄まってはいる。と言っても大きな目と大きな乱杭歯というニック・パーク特有のキャラクターは相変わらずで、時々作り手の柔らかな親指感を感じさせるのも変わらない。
このブタのホグノブ、声をニック・パーク自身が演じており、どうやら吹替え版でもそのままのようだ。セリフではなく鳴き声なのが奏功したらしく嬉しい。そして、このホグノブが実にいいキャラクターなのだ。主人公とその相棒というとウォレスと犬のグルミットが代表だが、ホグノブは知性的なグルミットよりもずっと素朴で、ダグに対する愛情表現も素直で直接的。バディではあるけれど弟分というか、ダグよりも一歩引いた立ち位置を崩さないのが健気でとても愛らしい。この『アーリーマン』にはニック・パークには珍しくちょっと美人系のヒロイン、青銅器時代人ながらダグに味方する金髪ロングのグーナがいるのだが、ダグの隣が似合うのは圧倒的にホグノブなのだ。ついでに言うとグーナ以外の原始人女性はいつものような団子鼻に乱杭歯のご面相で、この辺も揺るがないニック・パーク感がある。
ストーリーの軸はサッカー以外にもあるので、サッカーを知らなくても十分楽しめる作りにはなっている。しかし、欲を言うならば、ダグと仲間たちの原始人ライフや、ダグとホグノブの息の合った活躍をもっと見たかった気がする。スピンオフで短編など作る予定があれば嬉しいのだが。
これらの、シネコンで上映されるタイプの長編人形アニメ映画だけでなく、例えば、長いキャリアを持つ村田朋泰の作品を時系列に集めた短編集『村田朋泰特集 夢の記憶装置』が単館系で全国巡回中だったり、日本版『チェブラーシカ』で知られる中村誠の監督作品『ちえりとチェリー』が息長く上映活動を継続していたり、或いは劇場用作品ではないが、人形アニメーターの名手・峰岸裕和を擁するスタジオ、ドワーフが手がける人形アニメが本編中に挿入される日テレ系TVドラマ『サバイバル・ウェディング』という試みもある。今年のアカデミー短編アニメ賞に桑畑かほるが共同監督した人形アニメ『ネガティブ・スペース』がノミネートされたニュースも記憶に新しい。人形アニメは最早全く新しい局面に入っている。その最大の魅力は実際に手に取れそうな実在感。こればかりは如何に他の技術が進歩したとしても掛け替えがない。折しもスタジオライカ待望の新作が発表になったりもする。これからも人形アニメの新しい波から目が離せない。
※初出:『ビランジ』42号(2018年8月発行、発行者:竹内オサム)
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