提示することと提示しないことは両立しうるのか(編集中)

最近バーッと考えていることを、なんとか言語化したいなーと思っててー。しかし結構ずっと抽象的な話だ。

僕らに常に付きまとう問題がふたつある。
“どのようにしてそうするのか”、“なぜそうするのか”という問題だ。前者はほとんどの場合、自分の具体性を外に出す手法や技術を問うもので、後者は、既に外に出ている自分の抽象性を、逆に内側に向かって問うものだ。例えばそれは、なぜ展示するのかということから始まり、なぜ表現するのか、なぜ言語化するのか、といったように進み、かなり内に迫ったところまで、それぞれ抽象化の段階で毎回起こる問いである。

僕はこの2つの問題にずっと取り組んでいた。それは、2つの問いに対して回答するという取り組みではなく、その問いをすること自体について考える取り組みだ。これらを考えることは、例えば何かを作っていく上で手が止まってしまう人や、僕自身が今後何かを作っていくための処方箋になるはずだと思った。どのようにそうするかは、それぞれの個人的な内容や方向性によるものが強いが、後者のなぜそうするのかという問いについて考えることは、客観的にみても主観的にみても、行う必要があるのか分からないようなことをやっていくことでもあり、どうしても考えていかねばならない問題だと思っている。
繰り返すが、このそれぞれの問いに対する回答は、できるならそれぞれで勝手にやっていけばいいと思う。その回答ができなくて手が止まってしまったり、作りたくないものを作ってしまうならば、この問いをすること自体について考える必要が出てくるということだ。

なぜ僕がこのようなことをずっと考えてしまっているのかを少しだけ告白すると、僕自身の抱える問題として、目的の欠如があった。表現欲求だけがあり、その他の要素が一切ないというような状況に長く居た。いや、今もそうだ。なにか描きたいが描きたいものがない、そしていざ何か作るとなっても、常に既存のものに沿っていたり、ただ見やすくキマっている構図にかしこまってしまう。ただなにか作りたいというだけの僕が、どのようにして具体性を伴ったものを作れるかということに腐心し続けてきた。ぼく自身を外に表現するにはどうしたらいいだろう、逆に、僕が外に出したものの中のいったいどこにぼくがいるのだろう、その2つの間で彷徨い続けていた。

2つの問題をもう少し咀嚼していきたい。

現実的な問題

1つ目の、どのようにしてするかという問題。これは、僕は勝手に肉体の問題と呼んだりしているのだけど、頭の中にあるイメージを、外に出さねばならないとなった時、問題になるのは現実である。言い換えると、「実際に存在してしまう肉体」に直面する。この肉体の問題は、イメージを作品にする時、展示にする時などに大きくぶち当たる問題だろう。まあ、作るってそれらを乗り越えてやっていかねばならないものなんだけど、いちばん考えねばならないところだ。完全に頭の中のものをそのまま外に出すためにはどうすればいいか。試行錯誤して技術を磨いていくことや、あるいはいっそのこと偶然性に頼った制作手法を選ぶ、みたいなタイプもいる。まあおおよそはどのパターンも、どれだけ自分のイメージを現実的な問題にぶつからずにシームレスに外に出せるかということで、それは、自分の肉体をできるだけ排除しようというような形での解決方法だ。

これを敷衍すると、やりたいことがあるけどお金が無いとか、何か鬱憤を晴らしたいがその対象がないとか、その解決が分からなければ、差し迫った問題としてかなり苦しいことになってしまう。薬物に手を出したり、周りに危害を加えるような犯罪をしたり、悩んで病気になってしまったりする。みんな、肉体という現実につんのめって、どうしようもない動きをしてしまう。肉体があるという現実を受け止められない。

肉体の肯定

この問題に対してのひとつの向き合い方は、どうしようもなくある肉体というものを肯定していくことなんだと思う。これは結構抽象的な話で、いちいち肉体肉体って言い換えをしていたのは、この説明をしたいからだ。すごく簡単に言うと、もう既にあるものをもっとちゃんと見ようぜ、という話。まあこれはわりかしこう、作りたいけど作りたいものがない、あるいは分からない、というようなパターンの人に対して有効な取り組みなのだと思う。てのも、既にはっきりした作りたいもののイメージが持てている人間にとっては、この問題はただの乗り越える壁として、技術や手法を磨いていけばよいからだ。

具体的な方法を挙げるなら、自分が既に行っているものや、自分の内面が外在化していそうな痕跡、趣味、部屋、無意識の選択、そういうものをひたすら見て解釈する、ということを行う。自分が確実に手を加えた痕跡の中から、自分自身の微かな具体性を探し出し、そこから自分自身のことを知っていく。まあこれって結構人にやってもらうと楽なんだけど、そんなこと言ってくれる人って結構稀有な存在だったりするし、ほぼ自分でやってかなきゃならない。自分が気がついていない趣向や癖みたいなものから、自分は実はこれがやりたかったんじゃないかということに気がついていく。まあ、本当にそうかかは実際のところ分からないが、そうやって言い切る材料を集めていくことが出来る。自分はこれがやりたいと自信を持って言いきれない人間は、こうやって手探りに探していくしかない。僕は紛うことなきそういう人間だったし、ずっとそうしてきた。

そしてそれは、自分自身の既にある肉体(外に出ていること)自体をみて、そこから自分のイメージの輪郭を形作っていくという行為である。

僕はまあ、そんなことを考えていたもんだから、イメージをしっかり持って手を動かし始める人間を疑ってしまった。あいつはああ言ってるが、ほんとにそれを作りたいんだろうか。あいつは本当は何がしたいんだろうと、ずっとそういう目で人のことを見ていた。わかりやすい作品を作っている人を見ると尚更で、結局ほんとにしたいことではなく、見やすい作品を作って他人の共感を得たいだけではないのかと。

本当にやりたいことはなんだろうではなく、そういうことは誰にも聞かれなくとも、お金や人の目が絡まなくてもすでにやっているものんだよ、と僕は思ってしまうし、そうなんだろうと信じている。まあそういうのって、作ってるものを見てたら結構分かる。

なぜそれをするのか

もう1つは、なぜするのかという問い。これは両義性の問題と言い換えることができるかもしれない。自分の行動に両義性を迫られ、展示するかしないか、作るか作らないかとか、といったように、どちらかの判断をせねばならないし、そうしないと手を動かしてはいけないと思ってしまう。自分や他人の行うことに責任を求めてしまうのだろうか。少し極端にパラフレーズすると、これは生きるか死ぬか、という2つの命題の間に囚われて苦しんでしまう、みたいなこととも言えるのではないか。白か黒かをはっきりさせねば前に進めない。つまり、なぜ展示をするのか?なぜ作るのか?という問いは、君はなぜ生きてるのか、というどうしようもない質問をしているのと同じで、生きたくもないが死ねもしない、「死んでいない」だけの状態を一切肯定していない。するかしないかの選択を迫られる、そんな質問を投げかけているのと同じだとおもうのだ。

両義性を廃する

僕は、白と黒をはっきりさせたり、止揚によってグレーとして提出するような、“ひとつ”の振る舞いをやっていくという決断や判断は、間違いなく態度として誠実であり、大切なことであると思うのだが、その判断に迫られて身動きが取れなくなってしまうということは全然良くないと思うんだ。そういう時はひとつの答えを出すのではなく、白と黒がそのままある状態で提出すればいい。作ってしまえばいい。死んでないだけの状態でダラダラやればいい。ただそれは、判断しないということでもあり、ある場合では甘えや怠惰を肯定することにもなりうる。それはダメだが、両義性の狭間で苦しむくらいなら、そのままの状態を肯定することはかなり希望なんじゃないかと思うのだ。

まあこれは、結構生活の上でも大切なことだと思う。やるかやらないかを決めなければいけなかったり、相手に対して誠実であるために、何かを捨てなければならなかったり、なにかに当てはめねば自分を主張できないとなったりしている時に、もちろんその決断を下せるならそれに越したことはないが、その判断に迫られてほかのことが進まなかったりする。そういう時に、とりあえず白と黒があります、それをそのまんま提出してしまっても良いし、それは全然可能であるという感覚を持っておくだけで、かなり楽になる。その時に自分を定める必要はなく、人は移ろっていくもんなのだから、ということをもっと自分自身で肯定してやればいい。作ると決めて作ったり、生きると決めて生きることが素晴らしいのではなく、もう既に作れているなら、生きているならそれが最も素晴らしいのだから、別に生き死にの選択に迫られて苦しむことはないんだろうと心から思うのだ。

僕は、コンセプトや指針を決めずに、とりあえずやっていくということをどこまでも肯定するために手を動かすし、もはやそれがコンセプトとも言えるような制作をしている。もちろん説明できるもう少しわかりやすいコンセプトを定めているが、根本的にはそこだ。

どうしようもなさの肯定

これらの問題は、人間のどうしようもなさを排除しようとする問いだと思う。既に作っているもの、やってる事、やってしまってること、複数の選択肢、とりあえずあるもの、あってしまうものたちを肯定することは、我々が持っているどうしようもなさについて向き合うということだし、この先どうしようもなさを抱えつつもやっていくために必要なことだ。全てのものを抱え込んだまま進んでいけばいいし、ほんとにどうしようも無くなればそのときは作らなきゃいいし、死ねばいい。とりあえず先延ばしにしないとできないことは沢山あるはずだ。

僕は身の回りに、自身が抱えるどうしようもなさに阻まれて身動きが取れなくなったり、苦しんだり、最終的に狂ってしまったり、犯罪に手を染めたり、薬物に依存したり、そんな人が結構いる。この考えに至ったのはそういう人たちを見てきたからなんだけど、そういう人はやっぱり、肉体や、両義性に頭を悩ませた結果であることが多いんだと思う。もう少し自分を許してやれよと声をかけたくなるが、なかなか難しいことも分かる。そういう時は周りの人間からも肯定してやればいいんだけど、なぜ?どうやって?みたいな質問は、結構周りから飛んでくるものだ。

あまりまとまっていないけど、とりあえず言いたいのは、問いはもちろん存在するんだけど、その問いに誠実に回答する必要はどこにもないと言うことだ。聞かれたら答えなければいけないと思ってしまうと、現状できていることについて疑ってしまう。いや、それはいいことだし、そうやって苦しみながら進んでいくべきなんだけど、苦しみは、何かを深めるための苦しみでなくてはならず、ただ苦しいだけの苦しみになっていては意味がないと思ってしまう。でもまあ生きていたらそういう問いは四方八方から飛んでくるので、楽にかわす時の心持ちとして、あるものの肯定をしていこうみたいなことだ。

あくまでこれは怠惰の肯定では決してない。自分への戒めとして付け加えておく。


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