来年度に向けて

作品を作るとは、自分の作風をなんとか時代の中にカテゴライズすることなのだろうか。

京芸の制作展、精華の卒展を見て、共通の感想を抱いた。そしてこれは来年以降も続くであろうことが予想される。

このまえこのnoteにて、今年の京芸の制作展、全然ウザくなくてつまらん。みたいなことを書いた訳だが、精華大学の卒展を見て、だんだん冗談めいた言い方が出来なくなってきた。割と危機感を持ってこれに挑まざるを得なくなってきたわけだ。

すごく簡単に言うと、作品と作者の距離が遠く、自分の作品のカテゴリ意識みたいなものがすごく強い。そのせいで、なんだこれ!?わからねえ。みたいな作品、ほぼ全くない。表現主体の差し迫った具体性のどうしようもない発露、みたいなものもなく、冷静に淡々と自分の作風を披露するものが多くなってしまっている。分かりやすそうな例だと、以前は、ピンクでかわいい女の子が描いてあって、そこにすごくデコレーションされてる感じの作品、私は私の好きなことをやるんだ!みたいなアンチたる叫喚みたいなものが含まれている印象だったのが、もうそういうひとつのカテゴリとしてこなしてしまってる感があるものが沢山あった。

なんでこうなった?もうあれか?ハイとローの境目なくしたいとか言い過ぎたんか???いやさすがに違うか。まあなんだか、作品制作における苦しみが、作家自身の実存的な訴えではなく、作品自身の実存を考えるという方向でのものに、いつの間にかすり替わっているのではないかという感じがある。性自認を始めとした、人々が様々な呼び名をアルファベットの羅列にカテゴリ分けしていくかのように、作品制作も、目的が手法に取り込まれてしまい、その奥にある最も重要だった豊沃な人間固有の具体性が無きものになってしまっていくような怖さというのがとてもとてもある。それは、多様性を求める上での最も危惧すべき副作用というのが、一番及んではいけない美術作品、しかも学生の展示に浸透し始めているという印象だ。

精華の卒展にとんでもない作品があった。洋画の展示だったのだが、普通の学校机があって鏡とノートがセッティングされていて、そのノートには、手書きの私的な内面の吐露と、自画像があった。壁にも自画像や、誰かの肖像、誰かが鏡を見ている情景の絵がかかっていた。ノートの文字の内容は、自分が大阪に引っ越すのが本当は嫌だった、友達と離れたくなかった、とかから始まり、最後のページには、かつて自分の自画像を笑った親に向けて、かなり重めの訴えが書いてあった。この作品、違和感を覚えざるを得ない。というのは、ノートの文章の内容は、とても私的でかなりドロドロとしているのに、文字自体はかなり整っていて読みやすく、自画像もまさに作られたかのように最後のページに向かって少しずつ歪んでいく。コンセプトというか、作品の内容はおそらく作者本人の内面なのであろうが、それが小綺麗にセッティングされ、まさに作り物の物語かのように扱われているのだ。おどろきだ、わざとなのか本当の気持ちなのか、そこまで自分の内面を割り切ってコンセプトにしてしまえる冷静さや淡白さがどこから来るのだろうか。すごく、今年の卒展を象徴するようなものだった。

まあ、そういうことが今後も続くと予想されるのは、後輩達を眺めていてのことである。おそらくもっとずっと淡白なものになっていく。これはもう、うかうかかっこよくキマッてる作品作るかもとか言ってらんないかもしれない。俺も叫びをやらなきゃいけなくなるかもしれない。見た人全てをあまりの不快さに絶叫させてしまうような作品を作らなきゃいけないのかもしれない。

来年に向けた意気込みの方向性を変更する必要があるなと、割と強く思った。

まあ、今回抱いたものが、杞憂であることを願いたい。

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