作品展について。

学生でありながら複雑な理由により、ピュアな鑑賞者として今年の制作展に挑むことになってしまいました。この沓掛キャンパス最後の制作展だし、同期の卒業制作展でもある今年の展示は、どうしても少しばかりは感慨深いものになってしまう。

まずこの京都市立芸術大学の制作展は、というかどこの大学でもそうだけど、毎度のように「美術展覧会」として見るべきか「作品展」として見るべきかという迷いを抱えたまま見て回ることになる。まあ全学年、全専攻の作品が一挙に並んでいるので仕方ないのだけど、そのふたつのイメージがひとつの部屋に混在していたりして、思わず首を傾げてしまう時が多くある。もう少しいい折衝点があったのではないかというような。仕方なさももちろんあるのだが、まあ明らかにダメになってるところもあるし。周りの「作品展」的作品をフリにしたものとかも別にないし、まああってもかなり作り込まないとスベっちゃうだろうし……。それら含めて見えてきてしまうのがまあ、こういう展示の悪いところだとも言えるし、いい所ともいえる。

まあだからつまり、どこまでが発表の範囲なのかということの違いで、展示自体もそれに入る人と、作ったものだけ見てもらえればそれでOKな人とが共存できてなかったもの、ってのがすごく気になってしまったのだ。なので、ひと部屋丸々1人で使っているものは、良し悪し関係なく無条件で安心感をもって見れるとかいうことになっている。

なんかこう、専攻を横断して部屋ごとにキュレーションして展示する、とかもありなんちゃうかと思ったりしたり。そうなったら、あぶれでた作品群部屋、みたいな地獄の部屋とかが出てきてしまいそうではある。やる気ある人とない人の分断がはっきりするってのは、残酷だが結構面白いのかも。最悪な発想だけど。

まああれだ。少しくどくなったけど、結局学内作品展としての範囲の中で何ができるかを考えるのが1番いいのだろうと思うのだ。背伸び感とかも含めて作品展なのだよ、とか言われたら仕方がないけれど。

ところですこし、作品というものについて話したい。

作品っていくつかの動機の折衝点に立ち上がっている。折り合い地点とか言ってもいい。およそ3つくらいの動機に分けられるだろうか、商業的な新規性を求めるもの、実存を訴えかけるもの、社会や環境に言及するもの。これらは相互に関わり合っているが、作品が含む動機における、表現主体の具体性、必然性みたいなものの位置関係が、その作品の在り方を決めている。つまりは、出来上がった作品がまずあって、そのどこに作家の主体性が置かれる必要があるのかということが、とても大事なのだ。この作品を作るのがあなたである必要がどの部分にあるのかということだ。

商業的な新規性を求める際にある必然性というのは、単純に食っていくためだったり、私がこれを生み出したという実存のアピールであったりするだろうし、実存を訴えかける際には、それが新規性があるものである必要は無いのかもしれない。私的な実体験に基づく社会に対する言及は、新規性も見出そうとしているのかもしれないし、社会にメスを入れたいだけなら作家自身の実存はどうでもいいのかもしれない。三つの要素はかなり深く絡まりあったり全然絡まってなかったりする。つまりまあ、その3つの折り合い地点に作品が立ち上がり、その決め手が作家の必然性の置き所だ。

もう1つ、作品を見る時に考えるのは、レイヤーの話だ。作品って表現主体が土台にあって、その上に、主張、コンセプト、メディア、というようにピラミッド状に乗っかっていく。その上にあるものが前面に出てくるような形で基本的には見えてくる。最初にメディア、次にコンセプト、主張、そして主体の属性みたいなものが順番にレイヤーとなって見える。ぼくは、作品作りとはそれらのレイヤーひとつひとつを作り込む作業だと思う。どこかが疎かになると、それらのピラミッドがひっくり返ってしまい、作者の意図しない受け取られ方をしてしまう。作品の強度がないとはそういうことだし、まあ、自意識とか怠慢とかが、そういうナイスなピラミッドを作ることを邪魔したりする。主張したいです!って思って主張以外の層が崩壊しているものとか、もう作品じゃないなと思うはずだ。口で言えや、となる。

前者が作品の実存に関係し、後者は構造に関係する。もちろん、これらのふたつの視点は相互的にも関係していてもっともっと複雑に語れるし、全ての要素を包摂した表現では無い。まあけど基本的にはそんなふうに語れたりするんちゃうかと思う。

ぼくは、学生の作品を見る時はというか、学生の作品を見る場合においていちばん面白い部分はここなんじゃないかとおもう。実存的な作品の在り方も構造的な部分も、もうぐっちゃぐちゃになっているものがあるのだ。なんで!?なんでなの?言いたいことは分かる、でもなんでそこからその表現なの!?みたいなのとか、どんだけ急いだの?そこちょっと直すとか数分もかからないでしょ???みたいなのとか、冒頭で書いたような、物はいいのになんでそんな置き方したの!?みたいなのとか。そういう訳わかんない作品が沢山見れるのが、作品展の楽しいところじゃないかと本気で思うのだ。

しかし今年は、そのバランスがわりと取れている作品が多かったように思う。見やすい展示だった。悪く言えば大学作品展的な良さが無かったとも言える。もっと悪く言えば、どいつもこいつも無駄な自意識を働かせやがって、というような感じだ。なんだか収まりがよく、ボリュームが少なく見えたのもそのせいなのかもしれない。もっとウザめなやつもあってよかった。ウザすぎる作品見たいぜ、喉を掻きむしりたくなるようなやつ。まあ、移転もあるし、そっちに自意識を預けやすかったのもあるのかもしれないな。来年はもっとウザ作品を期待するし、ウザウザパラダイスみたいな制作展になることを強く期待する。

僕自身もウザすぎる作品、来年作れたらいいけど、結局自意識が働いてキメに行くんだろうなという気がする。今年は頭がパーの状態で受け答えしたウザウザインタビュー残したからいいや。あのインタビュー、時効かどうかわからないけど言うと、コロナが発覚した日に受けたので、まじで頭がパーだった。自分で読み返してウザすぎて発狂しそうになった。

まあ、今年はみんな大人しかったからこそ、展示自体の細かい部分が気になっちゃったのかもしれないな。そう思えば、やっぱテーマパークだ。おもろアトラクションをつくるぜ!みたいな意識でやっていく方がむちゃくちゃ真っ当なんじゃないか。間違いなくチーム戦だ。大学作品展っていうわりとニッチな独立したコンテンツなんだ。このおもろさってのを全員が理解してやっていけば、ウザウザパラダイスも夢じゃない。

個々の作品についてここでは言うつもりは無い。それがこの大学の人間であるぼくとして多分誠実だし、どう語っても悪い方向にしか行かない。この場で語る作品の感想は何にもならない。実存的なことも構造的なことも語れないし、どこまで行ってもそれらから透けた本人自身が見えてきてしまい、冷徹に語ることは不可能だ。もし語るなら本人に直接語る方が間違いなく良いし、おもろく語るなら外部の人間じゃないと有り得ない。

京芸の作品展についてとかつけたけど、脱線しすぎてそんな話は結局全然しなかった。まあ、そういうウザイ脱線も大事なのだ。この文章も、将来読み返して発狂しそうになることを期待する。

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