分かられないために(編集中)

今いるコミュニティに蔓延る病がある。いや、まあこれは今僕が所属しているからそう言えるだけで、もっと広く色んなところに蔓延しているかもしれない。てかそうだろう。
なにをやってもいい、というのが受け入れられている場所における、行為というものについて考えられることだ。

まず個人的に、分からなさというのはどういうものであっても、かなり希望に開かれているものだと思う。何をやってもいい場所において人々は、やってる感が得られるような行為を選択しがちだ。なんでもやっていい場所におかれた際の浮遊感を解消したくなってしまうからだ。その中であえて、分かられない行為を選択するというのは、その浮遊感をまず耐え抜き、孤独の中に飛び込もうとする行為なのだ。分からなさに向かって行くというのはそういうことだ。しかし、分かられないこというのは同時に、ポジションや作家性を作り出すためのひとつの手法にもなりうる。分からないということは、新規性があると見えるからだ。

その中で、鑑賞者がみるその行為の分からなさは、行間の幅を想像しうるものか、単に恣意的な瞬発力をもったものかというような判断ができるのだと思う。しかし、行為をする側の人間の方が、その鑑賞者からの2種類の眼差しを混同してしまうという場合が割と多い。つまり、鑑賞者を舐めてかかっているということだし、孤独を恐れているということでもある。

その行為のコンテクストの所在地を、行為自体の分からなさの部分に委ねることを前提として、その分からなさの演出をただ恣意性の拡張のような所作によって表現しようとすると、それによってできる余白の大部分に含まれる曖昧な感じだけが前景化してしまい、まるで作りこみを放棄しているかのように見える。てか実際に放棄している。

分からなさは、まずはなんの意味もなくただ分からないものでなくてはいけないし、そこになにか意味が認められそうな要素がチラつくと、行為に込められた作者自身の具体性が一気にその怠惰に絡め取られてしまう。

そこに自覚的に、丁寧に一つ一つの所作を検証しながら行わなければ、いつの間にかかなり強度が低くなる。まあ、コンテクストっぽいものを作ろうとするための方法としては、むちゃくちゃコスパがいいのだが、それに甘んじてしまうともう終わりって感じだ。それっぽくはなるがバレた時に全く言い訳ができなくなってしまう。そうなったらどうすんだ?という感じ。

道はふたつで、ほんとに瞬発的に行うための環境を整えた上で実行するか、あたかも瞬発的に行われたかのように細部まで作り込まねばならない。中途半端がいちばんいけないわけだ。本当に分からないものなのか、時間をかければ分かるように誘導されるような仕掛けがあるものなのか。どちらかをはっきりさせねばならないということだ。

まあ、人は孤独に耐えられないので、行為を早まってしまう。とても分かる。

僕がTwitterを消したのは多分そういうことだ。孤独を引き受けねばできないことがある。もう少し孤独に。


話は変わって、僕はドラクエの曲をいつも練習している。ドラクエは僕に、冒険のワクワクと孤独を教えてくれた。ドラクエの曲を弾いているとそれを思い出す。ドラクエの曲を練習している時の僕は、どこまでも孤独で、手探りで鍵盤を触るという壮大な冒険の中に引き込まれる。

ドラクエの中での冒険の記憶はみんな持っているが、それは共通体験でなく、それぞれの孤独体験として身体の中に染み込んでいるだろう。曲を練習すると、みんな体験したであろうそれぞれの冒険の孤独を確認し合うことができる気がするし、自分なりの冒険の記憶を演奏に込めることができる。

その中でも特に思い出深く、この日記にもよく登場させる今日を録音してみたのでのっけてみる。

まあ、この曲を弾きながら、僕は普段孤独と戦っているということを。

ほんとに好きな曲はまだあるが、それはまたの機会に。

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