タイムパフォーマンスとかいうクソな言葉

タイパを重視してる、映画を倍速でみてる、みたいなことを真面目に語るやつにはまだ出会ったことがないのだけど、本当にいるのか??メディアが作り出した空想上の生き物なのではないか??と疑いをかけてしまうほど、そんな人間が出てきたことに衝撃を受けてしまう。

まあ、もしそういう人と対峙した時一切話が合わないんだろうなと想像する。

人間って快楽のパターンがあって、消費的快楽と体験的快楽があるんだと思う。(体験的快楽についてはもっといい言い方が絶対あるけど)このふたつの大きな違いは、得るための道のりの長さだろう。消費的快楽は割と瞬間的な行動で得られるものだが、体験的快楽はそんなわけには行かない。じっくりそのものと向き合い、微妙な良さ、というのを感じとるまでには何度も触れる必要や、それを得るためのリテラシーを蓄積することや、様々なことが必要なのだ。それによって何かを得ることで、体験的な快楽に繋がる。人間関係もそうである。瞬間的な善い行動や、単純な消費的なセックスみたいなものではなく、共同身体性のような体験的な関わりというのがとても重要なのだ。そういうものをしていると、時間の速いコンテンツにも体験を見出すことができるというものだ。消費的な快楽だけを求め続けていたら、感性が死んでしまうはずだし、そんな人間と一体どうやって会話ができようか。

まあ、メディア論とかアテンションエコノミーとか、新自由主義とか、色んなことが言えそうだがそんな話はどうでも良くて、普通によくないだろう。タイムパフォーマンスとかいう言葉は一切広めない方がいい。会話できない人間が増えていくのはちょっと許容できない。


付け足して言うと、ひとつのコンテンツにおいて情報というのは様々な所に存在する。例えばある映画。単純なメッセージとか、ストーリーとかアクションとか、構成とか、そういうものはもちろんなのだが、その監督の撮り方の癖、俳優の演技の癖や間のとり方の癖といったような、技術の奥にある本人が自覚してない癖みたいなものがある。それは鑑賞者に向けられたものではないのだが、そういうものを見る側が受け取るには、かなりのリテラシーやその映画についての理解が必要だ。

コンテンツの作者が意図した快楽の得方だけではなく、そうでないもっと深い理解をして初めて、そのコンテンツのことを語れるというものだ。これが、消費的ではないコンテンツの楽しみ方だと思う。単純なこちらに差し向けられたものだけをポンポン受け取って次へ次へというようなコンテンツとの向き合い方は、まあ、娯楽としてならいいだろうが、そればかりになるとほんとに自分の見たいものしか見なくなって、しまいには感性が劣化して死んでしまうのはわかるはずなのだ。

時間をかけないと理解できないものを、面白くないと感じたらすぐに切り捨ててしまうような感性には絶対になりたくない。

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