クラシック音楽の聴き方 ベートーヴェンはバズらない



退屈で難しい音楽なんて


つい最近までベートーヴェンが苦手で、あまり熱心に聴いたことがなかった。
要因はいくつかあるのだろうけど、つまるところは「よくわからないから」というあたりに落ち着くのだと思う。



クラシック音楽を聴くという行為は、ある種の「退屈さに耐える訓練」だ。
仮に演奏時間が30分あるモーツァルトのピアノ・コンチェルトを聴こうと思えば、きっかり30分の時間が必要になる。「30分?じれったいな。そうだ、手っ取り早く5分に縮めてしまえ」みたいなことはできない。
音楽は時間の芸術だと言われるけれども、そこにはショートカットもなければ早送りボタンも存在しない。



そして、省略することも早めることもできない30分は、往々にして永遠と等しい長さの時間に感じられる。
楽しい時間があっという間に流れる一方で、退屈な時間はダラダラと引き延ばされているように感じるというのが真理ならば、クラシック音楽は紛れもなく後者の時間性を生きる芸術である。



クラシック音楽を聴くのは、まずはその退屈さに耐え、馴染み、やがて味わえるようになる、そこにいくまでが(そしてたどり着いてからはなお一層)大変なのだ。
マクドナルドはだいたいだれが食べても美味しいけれども、素材本来の味を引き立たせるために薄く味付けされた料理を味わうには、自分の舌で「味を探しにいく」ことが求められる。


そういう意味で、クラシック音楽を聴くという営みが時に困難を極めるのは、退屈を耐え忍ぶ「受動性」の中に、自分から楽しさや喜びを見出そうとする「能動性」が不可欠だからだ。
パッシブなアクティブさ、あるいはアクティブなパッシブさ、どちらが先でどちらが後が正しいのかはわからない。



ただ間違いなく言えることは、クラシック音楽というのは、ぼんやりとスピーカーの前に座って聴いていればそのうちに気分が乗ってきて楽しくなる、そういう種類の音楽ではないということだ。



退屈な上によくわからない、そんなものを、つまりはベートーヴェンの音楽を、いったい誰が、どんな理由で好きになるというのだろう?


ベートーヴェンはバズらない



数年前くらいから書店では「教養」がブームみたいだ。
グローバル社会での活躍を望むビジネスマンたるもの、英語ができるだけでは十分ではない。
哲学や文学や美術、いわば「アート」を知り、深みのある人間にならなければ、世界では戦えない、欧米人に見下される、そういう風潮があるとかないとか。


もしかすると読者もご存知かもしれないけど(たぶん知らない)、私は結構な物好きの天邪鬼なので、「ふん、何が教養だ」と眉に唾をつけながらも、周囲をシュッ、シュッ、と見回してから、こそっと本を手に取って読んでしまう(もちろん唾をつけた手で商品に触ったりはしない、念のため)。
で、そういう「盗み読み」の経験からすると、どうもクラシック音楽は「教養としての芸術」の仲間には、入れてもらえていないみたいだ。


美術だったら、本の中に名画の図版を載せて、横に説明を添えることができる。
本文を読んで、隣の絵を見て、へえなるほどねえと納得できる。本を読む以外にそれほど大きな手間はかからない。
そうやって身につけた「教養」を人前で披露するにしても、ネットでゴッホの絵を検索して画像を見せながら語ることができるので、その辺はまあ絵画にとっては便利でお手軽な時代になったのだろう。それが歓迎すべき現象なのかどうかは別として。



でも、音楽に関しては、ことはそれほど簡単ではない。
本を開いたら「平均律」が流れてくるような仕掛けにして、知らない人が「ちょっと立ち読み」と思ってぱらりとページをめくって「たらららたららた〜♪」とピアノの音と一緒にグールドの歌声(唸り声)が聞こえてきたら、びっくりして本を投げ出してしまうかもしれない。


結局、クラシック音楽の解説書に作品を添えようとすると、CDを付属するしかない。
でも、わざわざ「本を読む→CDを聴く」という2つのステップを踏む手間を惜しまない勤勉な読者が、それほどたくさんいるとは思えない(私も勤勉でない読者の一人だ)。



カフェで読書しながら「なるほど、バッハは〈音楽のパッパ(父)〉と呼ばれていて(くだらないなあ)、複数の旋律からなるポリフォニーが特徴なんだな」と理解しても、家に帰った頃にはもう、実際にバッハを聴いてみようなんて気分はすでに天に召されている。


じゃあ、QRコードでその場で聴けるようにすれば、と考えてみたけど、やっぱりこれもあまり役には立たなさそうだ。
「へえ、グスタフ・マーラーっていう人は、自分の曲を演奏するオーケストラは、全員が独奏者を務められるくらい上手くないと困るってぼやいたんだ」という話を読んで、じゃあどんなものかねえとマーラーの2番を聴くために1時間以上も読書を中断するなんて、アホらしくてさすがにやってられない。


結局のところ、「ファスト教養」なんて言われるように、その手のビジネスマンが求めているのは「手っ取り早さ」なのだろう。
マクドナルドに人々が期待するのは「早さ」と「安さ」と「お手軽さ」であって、栄養バランスや生の素材を活かすための繊細な味付けを求めるのは間違っている。



クラシック音楽が「教養=アート」に含まれないのは、たぶんそういうわけなのだろうし、たぶんそれで誰かが困ることもない。


そういうわけで、ベートーヴェンが「バズる」なんてことは、まずあり得ないんだろうなと、私は安心している。
音楽を広めるためにお仕事や活動をされている方には申し訳ないけども、クラシック音楽がブームになったり、それこそバズったりなんかして、だれもかれもがファッション感覚でルートヴィヒのピアノ・ソナタを着メロ(死語だよ)にするような、そんな世界にはなってほしくないと思ってしまう、割と真剣に。


ベートーヴェンを聴けるようになるまで



恥ずかしい話だけど、私は長いことベートーヴェンの音楽を好きになることができなかった。
ピアノの先生に「ベートーヴェンって、何度聴いてもわかんないんです」と話したら、「あ、そう?ふーん」と不思議な顔をされたことがあった。



それは、虚言癖とも言えるほどの誇張癖をもった弟子=シンドラーのせいで、「ふん、何が運命だ、何が英雄だ」と、ベートーヴェンをギャラントで見栄っ張りで派手好きでプライドが高い音楽家だと思い込んでいたせいかもしれない(大いにある)。



あるいはグールドの独特すぎるテンポのピアノ・ソナタを聴いたせいかもしれない(まあ、ありそうだ)。
はたまた、古典派の理論を極限にまで推し進めたベートーヴェンの音楽があまりに複雑すぎて、楽曲の中の情報を適切に処理するだけの「耳」を持っていなかったせいかもしれない(ある。いまだに)。

そのようにして私とベートーヴェンは、かなり長い間、互いに距離を縮める機会を持たずにいた。
私はベートーヴェンを誤解し続け、ベートーヴェンはそのことに文句も言わずに墓の下で静かに眠り続けていた。


昨年の暮れに「せっかくだし(年末だし)第九でも聴きに行くか」と思って、バーンスタインとカラヤンの録音を聴いておいてから、N響のコンサートに行った。
私はそれまで「第九=人類愛とその喜び」みたいな安直な固定観念に囚われていたのだけど、N響の演奏を聴いて「ベートーヴェンって人は、孤独だったんだ」と、胸の中でストンと何かが落ちた感覚に襲われた。


コンサートから数日経って、ふとベートーヴェンのピアノ・ソナタが聴きたくなった。それも初期ではなく、後期の、晩年に作曲されたものを。
園田高弘で30番を聴いているうちに「こんなに精神的な深さを備えた音楽だったんだ」と、鱗がボロボロとこぼれ落ちてきた。


私が聴いたのは、ベートーヴェンという歴史に残るほどの巨大な才能に恵まれた音楽家が、死ぬまで(あるいは今なお)抱いていた「孤独」と「絶望」の響きだった。
音楽家の生命線である聴力を失い、生涯一度として想いを寄せた女性から全面的な愛を勝ち得ることなく、そして何よりも、だれ一人として自分(とその音楽)を本当の意味で理解してくれる人がいなかった、その峻険な現実から生まれる悲しみを生きた人間の声だった。




今日はポリーニで32番を聴いた(実に difficult だ)。
とにかく内省した気分だったので、こういう時こそベートーヴェンの音楽だ。
自分の精神の深いところまで、心の水底にまで潜っていきたかった。
外界から容赦無く襲い来る、厳しく、冷たく、複雑で、自分の力ではどうしようもない現実から身を切り離し、「私」という人間の根本に目を向けたかった。



この過酷で暴力的なまでに理不尽な世界を生き延びるためには、激しい雨や強い風から身を守り、冷え切った心の体温を取り戻さなければいけない時がある。
私にとってベートーヴェンの音楽はいつしか、迫り来る現実の猛威から身を潜めるための音楽になっていたのだ。



ずいぶん長い時間がかかったと思う。
残念だけど、私という人間は、場合によっては、だれか/何かを受け入れ、理解し、そして好きになるまで、普通の人よりも時間がかかる、不器用で要領の悪い人間なのだ。



それでも、自分がベートーヴェンを聴けるようになったことは、素直に嬉しいと感じる。
無駄に時間だけが過ぎたのではなく、そこにはちゃんと音楽的な成長があった、その証拠としてベートーヴェンの音楽を聴けるようになったのだ、と。


だから、ベートーヴェンには、これからもできるだけ「個人的な音楽」であってほしいと願う。
間違ってもバズったりしないでくれよな、まあ、そんなことあり得ないだろうけど、と呟いて筆をおく。




いいなと思ったら応援しよう!