虚構の街を歩く
金曜日からずっと、東京の街を歩いている。現実ではなく、Ghostwire: Tokyoというゲームだけれど。
人のいなくなった夜の渋谷を、ただひたすら歩いている。ゲーム性については批評家でもないので特に語る言葉を持たないけれど、何も目標を達成せずともただ歩いているだけで楽しい。あと犬がかわいい。
虚構の世界に再現された東京の街を歩けるこのゲームは、情報が出た時からずっと気になっていた。虚構の、けれど限りなく現実に近い世界を散策できるゲームって実はかなり好きなのだろう。新しいPCを買った時、真っ先にプレイしたゲームは、京都の伏見稲荷大社をただひたすら歩くだけの「Explore Fushimi Inari」だったし。ある時を境に都内にほとんど出られなくなった自分にとっては、東京の街をただ歩くだけ(でも良い)ゲームが、ひどく魅力的に見えた。
Ghostwire: Tokyoの街には、誰もいない。正直に言って、二年前の春から、都内に住む人々にある種の屈折した感情を抱いていた自分にとっては、なんだかそれは小気味良い景色だった。同時に、誰もいない夜の街は、二年前に見た景色を思い出させる。疫病の蔓延。住宅街の狭い道を、白い街灯の光が弱く照らしていた。見渡す限り誰もいなかった、大都市の真ん中なのに。なんだか少し、呼吸がきゅっとする感覚がある。このゲームの中の景色は、今だからこそ胸を打つものがあって、だからこそ今、プレイしたかったような気がする。
いつからか、夜の首都高の景色に囚われている。このゲームの中にも、もちろん首都高はある。願わくば、ここがかつて自分が通った道でなければいいのだけれど、なんてよく分からないことを思う。自分で探しておいて、見つけた景色を眺めては少し苦しくなった。何気ない風景がもう二度と取り戻せないもののように感じるのは、虚構の街に人がいないから、という理由だけではない。
虚構の街がこれほど胸を打つのは、そこが限りなく現実に近いから。有り体に言えば、再現度が高いからだと思っている。街を構成する店舗、事務所、病院、あらゆるものがほとんど違和感なく再現されている。かといって現実そのままではなく、店や商品の名前は洒落を利かせたパロディになっていて、それを探すのも楽しい。個人的に好みだったのは、赤い自販機「和歌コーラ(和歌募集中、とのポップが付いていた)」、そば屋チェーン「樹海そば」、本屋の店頭とか住宅のゴミ置き場、あらゆるところに溢れる漫画雑誌「ホッピング」。由来が分かるとクスッとする。
あと動物がかわいい。犬は誰しも友好的で、近づくと撫でさせてくれる。対して、猫は撫でさせてくれる子が少ないというのもなんだか良い。少しゲーム的なことを言うと、「犬を撫でる」という行動は今のところ途中でキャンセルできないのだけど、持続的なダメージを受ける場所で誤って犬を撫でてしまい、かわいいねぇかわいいねぇと愛でながら死亡したことがある。笑った。
かといって、そこには虚構の世界もある。異形の存在もいる。そこがこのゲームのゲーム性たる所以なのだけれど、もはや散策がメインになっている自分にとっては、彼らが脇役、一種のアクセントになっている。
現実ではもう、まん延防止重点措置は解除され、街の人々は広く出かけ始めているだろう。なんだか、その空気が自分には合わなくて。何かが明けたように動き始める人々を横目に、どこかから抜け出せない自分がいることは分かっている。それでもなんだか、これで全部終わったね、めでたしめでたし、なんて気分にはどうしてもなれない。いまさら、行きたい場所も会いたい人も、もう分からない。誰一人として姿を消した虚構の世界に、もう少しだけ長居していくような気がしている。