自分の部屋に散らかる欠片たち
日曜の午後は正気度が下がっている。自覚はあるし、抗うことは難しい。抗うよりも認める方が、幾分かマシな気がする。
今日、というかもう昨日になった日曜日の午後は特にひどかった。天気が良いからと午後になってから外を散歩していたら、なんだか自分自身の異物感がひどくて、気が休まるどころかどんどん消耗していった。
緊急事態宣言も解除され、かつての生活を取り戻したような人々。連れ立つ二人。笑う家族。
対して、友人にも会えず、何も終わらず、この一年の喪失感だけが浮き彫りになった自分は、やはり異常なのではないかと、駅まで歩いて引き返す頃には、もう足元もおぼつかなくなっていた。こんなにひどいのは正直初めてだ。ボロボロになりながらやっと家に着いた。
寝不足だったのかもしれない。ただ単に空腹だったのかもしれない。もしくは、晴れた春の空がいけなかったのかもしれない。あの日も、雨上がりの日曜日、駅までの道すがら遠くの筑波山を眺めていた。ちょうど、ほとんど一年前のことだ。当たり前のように季節は巡るんだね。春になっても大丈夫かもしれない、などと思っていた自分は甘かった。
何かを大事に思う心なんて何にもならないよ、と何度でも繰り返す。何かを大事に思い過ぎてしまう自分だからこそ、何度でも自分に言い聞かす。
夕方、30分ほどの短い時間だったけれど、ベッドに倒れこんで泥のように眠って起きたら、少しだけ気分がマシになった。
最近、半年ぶりくらいに再開したApexをやっていたら、研究室の先輩もオンラインになっていたので、恐る恐るパーティに招待した。何マッチかプレイしたら、また少し気分が良くなった。なぜかボイスチャットを付けず、LINEのスタンプだけでやり取りしていたけれど。ゲームのアカウント名を自分だと認識してくれていたことが、なんだか少し嬉しかった。
Apexでさえ、焦って弱々しい負け方をした時のため息に、以前の季節を思い出してしまった。
自分が大事に思ってしまったものの欠片は、自分の生活のあらゆる場所に散らばっていて。いくつかの季節が過ぎて、やっと少し人間らしい生活を取り戻して部屋を歩き始める頃、破片を踏んで痛みを感じては、あぁと嘆息する。
どうすれば、散らからずに守り通すことが出来たのだろう。どうすれば踏まずに済むのだろうと、今はそればかり考えている。
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