希釈と中和
希死念慮を中和するだけのものが生活に足りない。
希死念慮が塩基性か酸性かでいうと、なんとなく塩基性っぽい。
中和と書いたからには、化学分野で食べてる者として、決めなければいけない気がした。
ただそうすると、希望は酸性ということになるのか。自分で書いておいてよくわからん。
語感や字面で考えると、自殺願望よりも希死念慮の方が、緩く、決して行動に移されず、それでいてどうしようもない感じがする。
「希釈」や「希薄」のように、希死念慮の「希」には薄いという意味は含まれているのだろうか、とGoogleで検索してみると、こころの相談窓口みたいな電話番号が画面いっぱいに出てきて辟易する。人を救おうとする試みはそれはそれは褒められたものだが、これではまるで自分の希死念慮を否定されたような気分だ。自分の気持ちくらい大事にさせてくれ。それが唯一の希望かもしれないじゃないか。
一昨日の夜くらいからずっと絶望していた。希死念慮なんかよりもよっぽど程度の低い、現実的なレベルで。
最近買ったSyrup16gのMouth to Mouseが、どうやっても上手くiTunesに取り込めなかった。必ず『夢』辺りから「チッ…チッ…」という断続的なノイズが入り始め、やがて曲が途切れ途切れになる。ボーナストラックのリアルに至っては最早フリーズする。どうして。
CDとして再生はできるので、ディスクの問題ではないっぽい。エンコード形式を変えても、ディスククリーナーを買って試してみても、部屋の湿度を限りなく下げてみてもどうにもならない。ジャケットの色も曲も全てが好きなのに。もはや憔悴に近いことに気付いて、これ以上悩むのは精神衛生に良くないと判断した自分は、仕方なく配信版を買い直した。ほら、賞与出たしさ。悲しい。これが大人か。
「悲しい時に決断してはいけない」という言葉を昔どこかで見て、心に留めておいたのだけど、希死念慮をぼんやり思い浮かべている今夜、2月から5月までの写真を消した。
「非表示」にも「最近削除した項目」にも、もう何も残っていない。その光景を見ると、まるで学生時代の部屋を後にした時の気分を思い出すようだったけれど、これで良かったのだ。
電子データが無くなってしまうと、却って記憶から消えることに抗うように、必死に脳裏に思い出そうとする自分が自分の裏側にいることに気づいていながら、特に止めることもなく放っておいている。少なくとも自分にとって、それはきっと自然な心の動きであって、無理に止めるようなものではない。好きにやらせておけば良い、そのうち落ち着くよ。
湯船に浸かって身体を温めれば、少しだけ気分が良くなってくる。いつの間にか23時を回っている。まあ明日も生きていけそう、という気分になる。
それでも根底に、中和し切れないものが燻ってる気がする。
20代はあと二週間ちょっと。