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あの日差し出されたのは、チョコではなく高級浄水器の提案だった
誰にでも、ふと思い出す人がいる。
携帯電話が世に出始めた90年代半ば。
まだ大学生だった。
その日はちょうどバレンタインデー。
時は夕方だった。
ややお別れの予感が漂いつつある当時付き合っていた彼女に、電話で急に呼び出され、駅前のマクドナルドに向かった。
もしかして、チョコでももらえるのかな。
最近会えていなかったからちょっと楽しみだな、と。
お店に着くと、笑顔でもなく不機嫌でもない、無表情な感じで彼女は席に座っていた。
「よ、ひさしぶり。」
「ええ、そうね。」
感情の抜けた乾いた挨拶。
さっきまでの期待はなんだか引き潮のように消えていく。
やや拍子抜けしたぼくの目の前で、彼女はカバンの中から分厚いファイルを取り出しながらこう切り出した。
◇
「〇〇くん、夢ってある?」
いささか唐突な質問に即答できないじぶんがいたものの、即座に「ない」と言ってしまうのはなんだか負けた気がして、苦し紛れに質問返しをした。
「どうして?〇〇はあるの?」
あの大人しくて、まじめで、友達も少なめだった彼女。
今まで見たことのない勝ち誇ったような表情で言い切った。
「もちろんあるわ。大金持ちになって別荘をもって、クルーザーをもって世界中を旅してまわるの。」
「・・・・」
返す言葉をぼくは見失っていた。
今までの彼女を知る限り、超絶らしくない言葉。
彼女の言葉には1ミリも共感できなかったが、お店の中で口論になるのは避けたかったので、だまっていた。
(なんか、こんな子じゃなかったのにな)
そして彼女はぼくの目の前で分厚いファイルを開き出した。
「ねえ〇〇くん。この浄水器買わない?すごくいいモノなの。」
は?ちょちょ、ちょっと待ってくれ。
浄水器を買え?時給730円でバイトする学生になにを言ってるのか。
差し出されたのはチョコではなく、浄水器。
これがいかに素晴らしいモノなのか、彼女はクリアファイルにはさんであるチラシを指さしながら、ぼくの言葉を待つまでもなく、まくし立て始めた。
ただただ唖然とした。
気付けば浄水器だけではなく、高級鍋とサプリメントのプレゼンをたっぷり聞かされていた。ちなみにナベの値段は30万円近くした記憶がある。
当然ぼくに買える値段でもないし、そもそも買う気もない。
この子は、一体何をしているんだろう・・・
一体今ぼくは何を見せられているのだろうか。
◇
うわさはなんとなく聞いていた。
最近、知り合いや友人に同じようなプレゼンをして回っていると。
やはり、そうなのか。
いま彼女の目の前にいるぼくは、もはや彼氏ではなく「見込み客」なのか。
先日、ふと彼女の友人から聞かされた。
近頃、週末夜はなんかミーティングとやらで忙しいらしい、との話。
なんだミーティングって。
ぼくにはナゾの言葉だった。
そう言えば最近何度電話しても出ない。ようやく出たと思ったら「今忙しいの」と切られ続け、ようやく会えた彼女。
「ミーティングとかセミナーで忙しかったの。」
サバサバと言った。
表情も言葉も、付き合い始めたときの彼女と明らかに変わっていた。
(これは夢か、夢であってほしい)
なにかのドラマで聴いたことのあるセリフを心の中ではじめて使っていた。
「な、〇〇よ。もしもだよ、仮に君がそのビジネスで大金持ちになれたとして、でも大切な人たちを失って得たお金だったら、それは成功とは言えないんじゃないか。」
できるだけ彼女を刺激しないように、でも語彙力に自信のない大学生が精一杯言葉を絞り出して、彼女の心に向かって伝えてみた。
ハ?なにを言っているのだ、このポンコツは。
そんなさげすむような目で彼女はキッとにらみつけてきた。
あとのやり取りは覚えていない。
かみ合わないやりとりの時間があった。
周波数がまったく合っていない会話というものを初めて体感した。
ほどなくエンディングはやってきた。
こんな捨て台詞を受け取り、ぼくは彼女との仲を終わらせることになる。
「あーあ。こんな後ろ向きな人だと思わなかったわ。じゃさよなら」
人ってここまで変わるのか。
こんな終わり方…。
怒りやら、悔しさやら。
ぼくの不甲斐なさやら。
おれは後ろ向きなのか。
おれのせいか…。
生まれてはじめて、何とも言えない苦いものが胃の奥から込み上げてきた。
彼女がお店を去ってから数分、いや十数分、呆然としていた気がする。
分かったことは、彼女と完全に別れたこと。
そして目の前のホットコーヒーが冷めきっていたこと。
あれから30年。
いまもバレンタインデーがやって来ると浄水器を、いや彼女をふと思い出す。
その後もあの活動をしていたのだろうか。
果たして、彼女の夢は叶えられたのだろうか。
◇
誰にでも、ふと思い出してしまう人がいる。
それがたとえ幸せな別れ方でなく、じぶんにとって苦い思い出であったとしても。
出会って別れた人たちのお陰で、ぼくの今があることは確かなのだ。
だから、過去と他人には感謝の念を送るようにしている。どうか、幸せでいてほしいなぁ。
何のオチもないささやかな思い出を書きたくなり、一気に書き上げアップしてしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
それでは、また。
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