共感性や人に寄り添う勇気それからvulnerabilityと共に。
しばらくここに何も書いていなかったのですが、今年は去年よりも書き残す一年にしようと決めたので、ちょこっと書いてみようかなと思います。(これ何年か前にも言ってるな。)
自分の過去の記事を読み返していてとても面白くて。というのも掲げていて達成できていないことがほとんどの反面、自分が予想もしていなかった事を達成していることです。例えば去年は友人に誘われてWeb based Magazineを立ち上げたり、イベントを企画して盛況に終わったり、新しい仕事が始まったり、ずっとやりたかった場所でのインターンシップが決まったり…。全て抱負とかに掲げたり、やるぞ〜!と意気込んでいたものでは無かったのですがなんだかまとまって、できた、やってみた。という感じでした。
noteに再び記そうと思ったのにも理由があります。それは書いてみると上に挙げた例のように、”良く”見える(という事に改めて気づいた)からです。人生は1日1日がきれいに区切られている訳でも無いから、時々とても不安になります。自分ってこの1週間、1ヶ月、1年何をしていたのかと。そして他人のBlogやらinstagramやらをみて頭を抱える訳です。「ああこの人たちはこんなに素晴らしい毎日を日々過ごしている。ああ私はその間Youtubeをみている…。」という感じです。でもそんなことは全くないんですね。そんな訳ないの。私も素晴らしい日々を生きているの。ただその日々を切り取ったBlogとかって美化されて映る。私たちはその「美しい上澄み」しか目に入っていない。けれどもその画面の向こうの人たちも私たちと同じように苦しみや悩みや退屈を抱えているのかもしれない。液晶画面はフィルターになって、「いらない」部分を濾過して、見えなくしてしまいます。そして私が今までこういうBlogとかを続けられない理由もここにあるなと思いました。自分もここでは「美しい体験」を見せ、共有するべきだし、したい。でもどこかでそれは自分の本意ではない。どこかでそんな事したくないと思っている。だってそんなのつまらないから。「有名企業でインターンシップしています」とか「”ドイツ人”の友達に囲まれています」とかそんな自慢のような何かは、実際の、現実の、何気ない、本当の、美しい、大切な日々を軽薄化してしまう気がするんです。そして自分はその本当の私の美しい日常を表現する語彙を持ち合わせていないんです。(文章って書けば書くほど上達すると思っていましたが、書けば書くほど何が「良い文章」なのか訳が分からなくなっていくし。)だからじゃあ書かない、となった。文章をきれいに、とか面白く書きたいとかそういう気持ちもありました。
とてもわがままだなあと思います。需要には応えたくないけど、応援してほしい、評価されたい、いろんな人に読んでもらいたい。そういう承認欲求がある。そして何かそれを隠すようにしていた気がします。今年はもっとわがままになっても良いかもしれない。自分軸で、自分を最優先に生きてみる、そこにもう少し挑戦してみようと思います。もちろんこの何年間かで培った共感性や人に寄り添う勇気と共に。