情動とは他者との共感の手段

「もし出逢った二人が共にそれ〔<運命>〕を感じたのだとしたら、そこでは二つの時間性の共時化〔シンクロナイゼーション〕が起きていることになるが、これもハイデガーのように、時間を自己閉鎖的な意識の流れとしてではなく、世界を構成する開かれた時間化作用として考えれば、起こりえないことではない。情動というものは他者との共存の形式なのであるから、烈しい情動がきっかけとなって二つの時間性の共時化が起こるということは、むしろありがちなこととも思われる。」(木田元『偶然性と運命』岩波新書2001年,p.42)

自らの情動ではなく思考に依拠する者は、文字通り他者との共感の手段を失い、共存ではなく孤立する。安冨が挙げる特攻の手記はまさにこのような事情を表しているといえるだろう。

「「猪鹿之立庭」という、生き物が生きるための場という言葉が、千年の時を経て、与えられた使命のために空虚なままで死ぬ「立場」というものに、変わってしまった・・・それは、日本文化の退廃にして堕落である・・・」(安冨歩『原発危機と東大話法』,p.210)
「人間にとって生きる力を生み出し、創造性を生み出す源は、状況の中で我々の身体が生み出す「情動」です。それを脳は「感情」として構成し、意味を生み出します。戦場で敵を殺して死ぬという行為は、それを振り捨てるように要求します。それゆえ感情を振り払った彼には、もはや言うべき事などないのです。」あるとすればそれは彼が頭の中で構成した単なる自己欺瞞としての「思考」に過ぎない。「愛する日本、その国に住む愛する人々、そのために吾等は死んで行くのだと考へることは真実愉しいものです。」(同,p.211) 


彼は喜びを感情として「感じている」のではなく、「考へることは真実愉しい」と言っている。彼が「真実愉しい」と言ってるのは「死んで行く」ことではなく、思考として自己欺瞞的に「~と考えること」である。

このような空虚で欺瞞的な思考は、今の時代とんでもないところに満ちあふれている。例えば国会の政権与党や維新というポピュリズム政党でどう見ても立派な学歴エリートとしか呼ばれない連中が、信じられないほどのクズ発言を繰り返している。

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