私の留学体験記 (1)入学するまで
さて、今回から少し私自身の留学体験についてお話しすることにします。いつもの一般的な話ではなく個人的な話になりますが、過去を振り返りながら、忘れないうちに書いておきたいと思いました。
私は1990年の後半から2000年の半ばにかけて、カナダの東海岸にあるトロント大学に留学をしていました。
今回は、なぜ私がトロント大学へ留学を決めたのか、そしてどのようにして大学院(博士課程)に応募し、そして合格することができたのか、までをお話しします。
1:自分の行きたい大学を決める
30歳を超えたあたりから、大学教員を続けるにあたり、やはり学位(博士)が必要だけだと思い始めました。そして、これからは英語も必要なので、いっそ留学して2つを一度に獲得しようと思いました。
そこで、まずどこの大学院へ留学するのかを決めなければなりません。
応募する大学院を探す上で一番簡単な方法は、留学経験のある知り合いの教員に、留学先の大学の教授を紹介してもらうことです。
そして紹介してもらったら自分で連絡をとりその教授に自分を受け入れてもらえるかどうか、交渉してみると言う方法です。
あるいは、日本人の留学生が多い大学に関する情報を集め、そこへ留学した知り合いを探し、問い合わせてみることもありです。
でも、私はこの方法をとりませんでした。理由は3つ。
第一の理由は、専門領域で一流の研究者がいる大学へ行きたいと言うことです。一流の大学では、紹介という形で留学生を受けるところはほとんどなありません。せっかく多額のお金を投資するわけですから、「一流」の研究者になりたいですし、そのためには一流の研究者のいる大学を目指すべきだと思いました。
知り合いの紹介を得られないということで合格のハードルはあがりますが、でも私はあえて難しい方を選びたいと思いました。
2番めの理由は、なるべく日本人の少ない大学へ行きたいと思いました。日本人の留学生が多ければ、日本人同士助け合うことができるというメリットがあります。
しかし、その分日本語で話す機会が増えるために英語が上達しないこと。加えて、日本人の中にいると海外の文化を身につけることが難しくなると思いました。
3番めの理由は、なるべく知り合いが少ないところで、自分の実力が通用するかどうか試したいというのがありました。
知り合いに紹介してもらったのでは、本当に自分の実力が評価されたかどうかわかりません。あえて、先駆者となりたいという気持ちがありました。
結果私が決めたのがトロント大学でした。
2:日本から大学へメールを送って打診
トロント大学へ決めたものの、果たしてどう応募するのか、また応募しても合格することができるのか。
これらの情報はすべてネットで調べました。1990年の後半からはネットであらゆる情報が得られるようになっていてラッキーでした。
情報はもちろんすべて英語でしたが、辞書を引き引き、なんとか大学の手続きの方法を調べることができました。
しかし、手続きの方法がわかったとて、それで合格できるとは保証がありません。
そもそも北米の大学院(学部も同じ)は日本の大学院のように筆記試験があるわけではありません。基本的に書類審査できまります。
大学院の応募の際に大切なのは、これは日本でも同じですが、自分の指導教授として適切な教授をみつけ、そしてその教授と交渉し、自分を院生として引き受けてもらうという交渉をすることです。
私はホームページの教員の欄をチェックしてみましたが、その情報だけでは指導教授としてお願いすることが妥当なのかどうなのかまではわかりません。
ましてや交渉をメールでするほどの英語力もありません。また、英語力があったところで、果たしてメールだけではうまくやりとりができるとは思えません。
これは現地にいって、可能性のある教授に会い、自分のやりたい研究を説明して関心を持ってもらうことが必要たと思いました。
そのためには、もちろん英語での会話の能力が必要です。しかし当時に私は英語を聞くことも、そして話すことも全くできませんでした。
そこで、まず英語で聞く話す力をつけるために、わたしは、日本にいるよりもカナダへ行きそこに住んで生活することが必要であると思いました。
しかし、それには一つ懸念事項がありました。トロント大学の希望する大学院が私のような留学生を引き受けてくれるかどうか疑問だったことです。
もし、その可能性が1ミリもないとしたら、つまり合格する可能性が全くないのであれば、私がカナダへ事前に渡ることは全く無駄なことになります。
そこで、その懸念を払拭するために、日本からトロント大学の教授へメールを書き、その可能性を探ることにしました。
メールの内容はもう不確かですが、確か、ネットで調べた大学院の研究科長らしき人へメールで自己紹介し、そして私は大学院の博士課程へ応募したいと考えているが、それについてどう思うかとうような内容のメールだったと思います。
そしてそれに対する返事はすぐにきてました。そしてその文面には"You are very welcome!"と受験を歓迎する旨の内容が書いてありました。
それがもしかするとリップサービスではないかという風に言う同僚もいましたが、私には少なくとも、「私の応募は全く無駄にはならないだろう」というは確信がもてました。
そこで、私は勤めていた大学を3月の末で退職し、5月にはカナダのトロントへ飛ぶことになります。
3:資金はどうしたのか
話がもどりますが。ここで留学のための資金の話をします。留学には費用がかかります。授業料と生活費です。
私は少なくとも5年は帰国しないつもりでした。そのために5年間は働かなくても学業を続けられるお金が必要と考えました。資金は私は自分で6年間かけてためました。
当時のトロント大学で私の目指す大学院の授業料は年間当時は120万円でした(これは留学生の額)。今はおそらく2〜3倍に高騰していると思います。日本は経済低迷期でデフレが続いて給料も物価も上昇していませんが、他の国は物価も給料も上がっているからです。
また、当時に円高で、カナダドルの1ドルが日本円でわずか78円でした。ですから、結構留学しやすい時代だったと言えます。
それを思うと、今の日本人は留学の経済的なハードルが高くなったと思います。
加えてもう一つ私にとってラッキーだったことがあります。それは年間150万円もの奨学金をもらえたことです。
トロント大学はカナダでも有数の大学です。しかし、一方でカナダの若者はアメリカのアイビーリーグの大学を希望し、アメリカへ留学するのです。
これはカナダにとっては頭脳流出です。そこで、この流れを止めるために、トロント大学では当時博士課程のフルタイムの学生全員に年額日本円にして約150万円の返済不要の奨学金を給付したのです。
これは留学生の私ももらうことができ、結果年間授業料をこえる額の少額金をもらうことができ、結局私は授業料をはらわずに無料で大学院で学ばせてもらうことができたということです。
当時日本の方がカナダよりもずっと一人当たりのGDPが高かったはずですから、なんとなく申し訳ないと思いました。
当時の日本では返済不要の奨学金を国が給付するなどとは考えられなかったので、私は本当に返済不要なのかとアドミッションオッフィスに確認にいきました。
その時にスタッフから言われいました。「奨学金」というのは返済不要と決まっている。あなたが言う返済不要なものは「奨学金」とは言わない。それは「ローン」だと。
異国にきていろいろとつらいことありましたが、その時は本当に涙がでるほどうれしかったです。
4:引き受けてくれる教授をみつけるまで辛抱強く交渉
さて、2の続きで、メールで交渉し、そしてカナダへ着いたあとに、どのように教授と交渉したのかという話です。
ハードル一つ一つ超えていくのですが、それなりに苦労はしました。
まず、私の希望していた大学院の留学生に対する態度は予想に反して、それほどオープンではなかったのです。
知らなかったのですが、私の前には英語圏以外からの留学生を受け入れた経験がなかったのです。ですから、その大学院全体が日本人の私をどのよう受け入れていいのかわからなかったのかもしれません。
最初なかなか私は指導教授を見つけることができませんでした。
ただ、あきらめずに交渉している間に、assistant professorの職位にあたる教員が私のことに関心をもってくれました。ただ、ルール上この職位の教員一人では博士の指導教員として私を担当することができず、associate professorあるいはfull professor をもう一人探さなければなりませんでした。
可能性のある教授の何人かにメールを送りましたが、どの人もいい返事をくれませんでした。
しかしそうこうするうてに、最終的に一人「私が担当してもいいです」と名乗りを挙げてくださる教授がいて、ようやく私の担当が決まりました。
しかし、それまでにアドミッションオフィスのスタッフから「あなたなんか無理よ」と冷たい言葉をかけられたり、研究科長にあたる教授から「今年はもう留学生はとらないから」とメールをつきつけられたりしました。
でもその時心が折れることはなかったです。なにしろ、もうカナダにきています。あとには引けないです。ここは、覚悟を決めて、何がなんでも受け入れてもらうまでは帰らないという気持ちで交渉を続けました。
結果、無事に合格し入学できたと言うことです。
このあたりから、なんとなく西洋社会でアジア人として生きるのって結構難しいなと思い始めていました。
ということで、今回はこれでおしまいです。
これからトロント大学の大学院生としての生活が始まり、いよいよいろんなことが起こります。
ではまた。