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専門家による共感は諸刃の剣
今日は、看護師などの医療・福祉の専門家が自分のサービスの対象である人たちに示す共感の功罪についてお話しします。
本日のメッセージ
共感はその対象者を「被害者」として扱うことになり、結果として「社会的弱者」を作り出してしまうことになりやすい。
保健医療従事者が共感をすると言うこと
看護師は大学や専門学校で、患者に共感することが大切だと教えてもらいます。
ここで言う、共感とは相手の意見や考えを理解しその通りだと自分も思うことです。よく、看護の領域では「患者の気持ちに寄り添って」と言う表現を使います。
医療従事者が対面する相手は、入院している患者さんや体の状態に何らかの問題を抱えた人、あるいは精神的にストレスを抱えた人など、何らかの負荷を背負った人が殆どです。
したがって、共感とはこれらの人々が置かれた状況を理解し、そしてその痛みを理解することだと捉えられます。
しかし、医療従事者は専門的知識を持つためにそのサービス対象者よりも有意な位置に立ちます。
つまり、これらの対象者を「弱者」として捉えやすい立場にいるというおkとです。
そして、患者はその「弱者」の役割を知らず知らずのうちに、受け入れていくことになります。
パターナリスティックと言う専門的な言い回しもありますが、要は困っている人に専門的立場の人が、上から目線で助けてあげようとすると言うようなやや不遜な態度をとりやすい、と言うことです。
そしてこのような態度は、患者を「被害者」として位置付けてしまいます。
私は、これがは共感によって起こる、功罪の「罪」の部分だと思うのです。
少し具体的な例でお話しします。
高齢者への共感が引き起こすこと
私の失敗談です。
私は、数年前身体機能が低下した高齢者(要介護状態とも言いますが)訪問して、インタビューをしていました。
このとき、私の中には身体機能が低下した高齢者は、家族から介護をされる立場になり、きっと辛い思いをしているに違いないと言う固定観念がありました。
ですから、インタビューの最初でこれらの調査対象となる方との信頼関係を築くために、まず、共感的態度を示そうと努めました。
そこでインタビューの冒頭で、その高齢の方へ「体が弱ってきて生活の中で何が一番大変ですか」と尋ねてみました。
ところが、その方は「大変なこと何もないけど」と返答しました。そして、私の質問に戸惑っている様子でした。
最初は、私の質問の意味がわからないのかなと思ったんですが、何を聞いても、私が期待した反応は返ってきませんでした。
しっくりしないままインタビューを終えて家に帰り、そしてそのインタビューの記録をじっくりと読み返してみました。そして気がついたのです。
その方は、私の質問に答えないだけでなく、質問をそらすために、話題を何度も変えようとしていました。
それに気づかない私は、何度も話を元に戻そうとしています。
なんでこうなるのであろうと、その理由を考えてみました。
だんだんわかってきたのは、その高齢者の方は、娘との関係がとても良いせいか、「世話になることに」に対する自由さを全く表現していないのです。
確かに、歩けなくなって情けないとは思っています。しかし、それをあえて自分では、言わずに、元気な高齢者として振る舞っているのです。
もっとわかったのは、その高齢者の方は、そうすることで、自分の元気な頃と同じ「自分」、つまりアイデンティティを保とうとしているのですね。
身体機能が低下していく自分ではなく、若い時の生き生きとしている自分を崩したくないのであろうと思います。
インタビューの間、それに気づかない私はこの高齢者を身体機能が低下することにより思うようにならない人生を生きている「被害者」であると勝手に決めつけ、その立場を押し付けようとしていたのです。
子育て中の母親への共感が引き起こすこと
別の例をお話しします。これは、ある市の保健師さんから聞いた話です。
今度は子育て中の母親への共感で、専門職が陥りやすい失敗です。
保健師は乳幼児健診で子育て中の母親に子どもの発育や発達のこと、育児での困り事などを聞いて、解決策を提案しています。
保健師も、単に問題を聞いて解決策を提案するだけでなく、母親に共感を示すことが、人間関係の構築には重要であると教育を受けています。
最近はイクメンと言う言葉ができたように、男性も育児に参加するようになりました。
でも、今から20年以上前は、母親一人で育児をしなければならない人が多く、育児負担や育児不安が社会問題になっていました。
そこで、共感を示す一つのやり方として、よく私たち保健師は「お母さん、大変ですよね」と言う声かけをしていました。
この言葉掛けに涙を流して、「そうなんです」と理解してくれたことに、感謝する母親ももちろんたくさんいました。
しかし、ある市である時、学生の実習指導をしている私に、保健師さんが「健診に来られたお母さんに『(子育ては)大変ですよね』と言うことばかけはやめてください」と言われました。
理由は、お母さんたちから保健師さんたちにこの言葉かけに対する苦情が来ていたのです。
お母さんたち曰く「私たち母親は、大変でないといけないのでしょうか」と。保健師さんたちの「大変ですね」と言う言葉の裏には、「育児はお母さんがするべきもの」と言う固定観念が隠れていませんかと。育児は父親母親が共同ですべきもので、「母親だけが大変」であるべきではない、と言う思いですね。
確かにその通りです。
私たちは、「大変ですね」と共感することで、お母さんたちを育児を一人で頑張らないといけない「気の毒な」立場に追い込んでいたのですね。
その苦情を呈したお母さんたたちを私は「あっぱれだ」と思いました。
アイデンティティは会話を通して作られる
私たちは、アイデンティティはある社会の属していることにより作られると思いがちです。でも、実際は所属しているだけではアイデンティティは作られず、その社会の人々との会話を通して形成されると言われます。
例えば、ある大学に入っても何となく、自分がそこの大学の一員としてしっくりくるようになるのは、しばらく経ってからではないですか。
その大学に入って講義を受けているだけでは、その一員としての自覚は出ないと思います。
それは、クラスメートとの会話であったり、教員との会話であったり、クラブ活動での会話を通して、つまり、人との交流を通して、初めてその所属する社会の一員としてのアイデンティティが作られます。
同じように、専門職との会話も対象者にとってはアイデンティティを作る上で、影響を与えているのです。
特に専門職は専門的知識を持っていると社会から認められている集団です。
この専門職との会話というのは、高齢者としての、母親としてのアイデンティティの形成に、一般の人との会話以上に影響が大きいと言うことです。
共感という手段を通して作られる会話はその対象者を「被害者」にしてしまい、社会的弱者としてのアイデンティティを作り出してしまう危険性があります。
上記の母親のようにそれに対する抵抗を示し、自らのアイデンティティを維持する、あるいは作り出していける人は少ないと思います。
専門職は共感という「人の心に寄り添う」ことを吟味して使わないと、その人たちのためにはならない、と言うことを理解しておくことが大切です。
ではでは