アシンメトリーな日記:11日目
じいちゃん
家の裏手には大きな川が流れていて、夏になると友達とよく泳ぎに行っていた。
毎年、子供や大人の遊泳で死者が出るような川で、夏になると学校でもつよく注意を促されている。
しかし、夏休みの子供というのは解放感に満ち溢れ、そんなのには負けないで川へ出かける。
当時は分からなかったけど、僕が川へ遊びに行くと、必ずといいっていいほどおじいちゃんも来て一緒に泳いでくれていた。後からばあちゃんに子供だけじゃ危ないから行けと言われてたと聞いて納得した。
突然、ふと
じいちゃんと僕の、たくさんの思い出や記憶をたどりながら書いているけど、実はこれといった、大きくて印象的な思い出はないのかもしれない。そう思うと不安になってきた。
現在の僕は実家にも住んでないし、思い出の品のような物もない。僕が大人になった時に撮った家族6人で写っている写真だけ。
思い出は何かで紐づけてあって、その「何か」が無いと引っ張り出してこれない。今はその引っ張り出す手がかりがない。
手がかりがあったら、何か引っ張り出してこれるのだろうか。
僕は長男として生まれ甘やかされて育てられた。
じいちゃんにはいつもいつも甘えていた。
じいちゃんは僕を甘えさせてくれる居心地の良い場所だった。
僕のわがままを、嫌な顔一つしないで全部聞き入れて受け止めてくれた。いつも僕の見方でいてくれた。
両親に怒られても、ばあちゃんに怒られても、じいちゃんだけは優しかった。
じいちゃんはいつもいつもそばに居てくれた。
そしてじいちゃんは5年前に他界。
ふと思いを巡らせる。
そして、じぶんの思い違いに気づく。
じいちゃんとの思い出は、忘れたわけでもなく無くなってしまったわけでもない。僕の血となり骨となり生きている。
父親は礼儀作法やあいさつに対して、とても厳しく丹念に教えてくれた。
それはじいちゃんから父親へ受け継いだバトンのような物。
そして僕へと受け継いだ。
だからじいちゃんは、僕の中で生きている。
じいちゃんはよくあずきバーを食べていたから、今日はあずきバーを食べて思い出に浸ろうと思う。
今回はここまで
それではまた、あす!