マナーはなぜ生まれるのか
今時っ子である読者の方は、「マナーとは」に関連する言葉を書いた記事や単語を見ただけで、
「あぁ、またクソみたいな風習を作ろうとするマナー講師が現れたな…」
と思うことでしょう。
その気持ち、わかります。
今ではもはや過去の遺物、悪習として強く残っているマナーですが、役に立ってもいたからいまだに残っているものもあるわけです。
よって、今回はマナーがどうやって生まれたのか、についての考察をくどくどと書いていきます。
どうぞよろしくお願いします。
そもそもマナーとは何か
マナーとはそもそも何のことを指すかについてまずはおさらいから
wikipedia先生曰く、行儀・作法のこと。
復習するまでもなく形式的な場では形式的な行いをしなさいという、また言い換えればTPOをわきまえて行動をしなさいというところが元来の意味です。
このこと自体に異議がある人はまぁいないかと思います。
なぜマナーという言葉が必要になったか
かつてはどこもかしこも村社会であり、住民から顰蹙を買えば村八分になってしまうのは必然でした。
そのため、周りの空気を読んで、不快感を与えないように配慮する技術というものがどうしても必要になります。
しかし、人間は多様性の生き物です。
どうしても、空気を読めない、わからない人というものは現れます。
空気が読めないために不要な敵意を買い、結果生きていくのが困難になる人もかつては…いえ、今も多くの人がその空気の犠牲となっていることでしょう。
学校内のいじめなども分類的にはそこに値します。
いじめの問題はもっと他にもいろいろな要因はありますが、それはとりあえず置いといて…
さて、空気が読めない人への救済措置が、まさしくマナーなわけです。
こうしておけば大体問題ないんだな、という指標として、空気の読めない人たちの救いとなったのがまさしくマナーなわけです。
それからのマナー
さて、この行儀・作法を拡大解釈すれば、要するに他人に不快になる行動をとるなともなります。
ここから派生して生まれたのが、今を代表するクソマナーに当たります。
・面接会場での扉ノックの回数は3回
・書類のハンコは二人目からは斜め
・了解という言葉は失礼
などなど
これらの本来存在しない、必要性のないマナーは言ってしまえば現代のマナー講師が飯のタネにするために捏造したマナーと言えるでしょう。
しかし、グローバル化が進み、全体主義から個人主義の時代に移り変わってきた今の世には正しいマナーというのは文化、思想によって全く異なり、固定的なマナーはもはや意味をなさなくなってきました。
相手を理解するために不快の地雷を探るための指針の一つくらいにはなるでしょう。
ですがそれもあくまで全体の話で、明日あなたが離すかもしれない誰かと一致するわけではないのです。
これからはマナーを飯のタネにするのではなく、マナーを酒の肴にでもするのがよりよい生活を作るためにやっていけることではないでしょうか?
以上、スーツが大嫌いな個人主義者からの言葉でした。