バウムクーヘン

早く寝たけれど、夜中に目が覚め考えだし気になりだし携帯を確認し、また考えだし気になりだし携帯を確認し、というループにおちいる。朝起きてまた繰り返し、さっきも繰り返す。ばかみたいだねえ。本当に。

きちんと洗濯が干され、リビングのオレンジのあかりが遠くから見えて今日もきちんとなさっている人はなさっているんだなと思う。強いなあ。こうゆうものに負けないんだ。

昨晩読んだ谷川俊太郎さんの『バウムクーヘン』という詩集がとても良かったことを思い出す。今のわたしにぴったりで。今それを思い出して、こんな自分もまあ良いかと思えるほどの、どうでも良いかと思えるほどの、包み込むようなちからを受け取る。寝る前もそんな感じで幸せだなあと思ったんだった。

バウムクーヘン。いいなあ。わたしたちはバウムクーヘン。いよいよわたしは39層のバウムクーヘンとなるんだった!

(2020/12/2「バウムクーヘン」)



きのうはもうだめだとおもった。あれもこれもぜんぶわたしがわるいとおもったわけです。「おかあさん、おいそがしいんですか」とせんせいにきかれて「ぜんぜんいそがしくないんです」とわらいながらこたえた。もうすこしまじめにがっこうのしゅくだいをみようとおもいます。ほんとうはわらいたくないのにわらって、そうゆうじぶんはいやだなあとおもった。きぜんとしたひとになりたい。きぜんとしたじぶんをそうぞうしたら、ちょっとぷぷぷ。

「おかあさん、おいそがしいんですか」がなんどもぐるぐるして、やるきがおきなくて。そんなときにやさしいことばをかけてくれるひとがいてありがたいなあとおもった。こまったなあというときにやさしい。こころからかんしゃする。

ひとばんねて、むすめをようちえんにおくって、かえってきたらハツラツとしてきた。きのうとはおおちがい。よかった。そうゆうものだ。げんきがでないときはどうしてもげんきがでないのだ。だけどかならずげんきはでてくる。やすめばでてくるのだよね。

こけだまにちいさなちいさなふたばがある。きみはいったいだれですか。かわいいね。ありがとうね。

谷川俊太郎さんの『バウムクーヘン』がひらがなでかいてあって、ちょっとまねしたわけ。ひらがなっておもしろいんだなあ。すらすらすらってかんじ。やさしいかんじ。ここまでよんでくれたひと、ほんとうにすごいひとだ。よみにくくてごめんなさい。よんでくれてほんとうにありがとう。

2020/12/3「ひらがなのきもち」



時々、過去に書いたブログ記事を読み返す。谷川さんの『バウムクーヘン』について書いた記事があったなあ、と読み返す。へえ、こんなこと書いていたのか。と、毎回思う。書いた途端に忘れている。…なにをそんなに気になりだしていたのか?さっぱりわからない。ささいなつらいことは忘れるようにできていて、本当によかった。「お母さん、お忙しいんですか」は覚えている。ぐさっとささった言葉はそう簡単には消えないものだ。でもこれをひらがなで書いたことは覚えていなかった。私はもうちょっとで43層のバウムクーヘン。毎年感じる気負いはない。青空が見える!今日をいい日にしよう。