傷つかずにはいられない
時々頭に流れる。
いや、けっこう、
コトあるごとに流れている。
こんな状況に出くわすと
(そう私が感じたに過ぎないが)
この部分の歌詞だけ思い出す。
3年生までいた大分の小学校。
学校が今月の歌を決めていたから、
帰りの会などで歌った。
誰先生の文字か分からないけれど、
手書きのかくかくとした文字で
歌詞が書かれていた。
もう30年以上前になるというのに。
9歳の私は、この歌はいい、
と思いながら歌っていた。
でも、この部分だけを
いまだに思い出すのはなぜなのだろう。
9歳の私はもうあの頃から
こんな風に思っていたのか?
*
子どもの学校に行くと、こんな場面がある。
親たちが集まった時の、
あの何とも言えない空気がそこにあって。
知り合いなのに、目を合わせても
挨拶を交わさないとか、
ちょっと、がっくりしてしまう。
あれぇ、私、会釈したんだけどなあ。
でも、向こうには向こうの事情がある。
気づかなかった可能性だって大いにある。
あなたとは挨拶したくないからしない、
という選択だってある。
それは自由だ。
「致し方なしだよ」
ともう一人の私が私に言ってくる。
そして、またこの曲がすかさず流れる。
この部分だけ。
*
表現するということもまた、
傷つくことを恐れていてはできない。
たくさんの人に読まれるということは、
いいと思う人と、
そうではないと思う人がいる。
それは覚悟しておきたいものだ。
さまざまな有名とされる方たちも。
好きだという人と
私はあんまり好きじゃない、という人と
どっちでもないという人と、
存在すら知らないという場合だってある。
「好き」だって変わる。
その時は本当に「好き」だったとしても。
時とともに好きではなくなる場合もある。
銀色夏生さんの「行く道」という詩にも
「好きなものは刻刻変わる」と書いてある。
『すみわたる夜空のような』
という銀色さんの詩集を大事にしている。
この本のタイトルでもある詩。
私はこの詩を、
拠り所にしているところがある。
傷つきながらも(傷ついたという
思い込みの可能性は大いにあるが)
ベースにはこれがある。