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他人の言葉が自分を創る…328日目

 年度末、季節外れの暖かさ。東京都心で最高気温28.1℃を観測し今年初めての夏日、3月の気温としては観測開始以来の最高気温、7月上旬並み。

 選抜高校野球決勝、高崎健康福祉大高崎高校(群馬)が報徳学園(兵庫)を3-2で下し、選抜では初の群馬勢優勝、おめでとう!(群馬県民は20人中3人の“外人部隊”ではあるが)
 
出場32校中、秋の公式戦の打率トップで、優勝候補の呼び声高かったそうだ。ただ、報徳が準々決勝で大阪桐蔭を破り、他校にも「優勝チャンスあるかも」と精神的ハードルを下げさせた感あり、報徳は他にも愛工大名電、常総学院とも当たったし。力は拮抗していたのだろう。お疲れさまでした。
 にしても、健大の前身が「須藤和洋裁学院」(⇒群馬女子短大⇒高崎健康福祉大)だったとは。女子教育のための学校から出発して選抜優勝とは、不思議なあっぱれ。

「『前を向いて』が嫌い」で思い起こす「『頑張って』が辛い」

 そうそう気が付くと年度末。テレビが壊れたまま買ってないため、ネットでNHKラジオを流すことが多い。明日で能登地震から3か月、「『前を向いて』という言葉が好きではない」という投稿を巡り、いろんな意見が紹介される。

 「頑張って」と比べる。うつや鬱病の社会的認知が拡がった時、よく言われた。自分では頑張って頑張って疲れ果ててうつになっているのに、そこに、頑張ってと言われると辛い。では、周囲の人はどんな言葉をかければいいのか。何も声をかけないで寄り添ってほしい、と言われてもある一定の人にそんなことができる人は、よほど親しい人かカウンセラーなど職業人か。では、頑張ろう、はどうか。頑張ってるよね、なのか。、どうすればいいんだ。。

他人からの強制に「聞こえる」と辛い

 そんな、他人を励ましたいけど傷つけたくない人たちがおそるおそる見つけた言葉のひとつが、「前を向いて」なのだったのではないかと、勝手に想像する。まあ、メディアで使いやすいキャッチフレーズでもあるから、そのためでもあろう。
 「向いて」の部分が、他人からの強制に聞こえると、きつい。
 何をお前は、こちらの心なんぞわからないくせに、偉そうにづかづかと踏み込んできやがって、前を向く、それがいいのは、わかってるよ、わかってるけど、つらいんだ、お前になぞ言われたくない。

自分を傷つけ、他人を傷つけ、按配を見据えながら生きていく

 自分が生きていること自体が、他人を傷つけることだ。
 自分が言葉を発すること自体、他人の心を傷つけることだ。
 では、生きてはいけないのか、言葉を発してはいけないのか、そんなことはない。

 他人を傷つけながら、同時に自分も傷つきながら、その傷をもとにお互い成長「できそうな」按配を探る、他人と共生する社会ではそれしか生きていくすべはないのだろう。繊細なこの行為を放棄すれば人間関係の解消や放置、無視、観てみぬふりなどに到り、自分を守ることを優先して他人をどんどん傷つけていけば無意識でもハラスメントやいじめになる。

他人の言葉が自分を創る、強制されたくはないけれど

 「前を向いて」に戻る。
 自分で前を向く、のはいいのだ。
 では、自分で前を向く、という行動はどこから生まれるか。

 1.動物の身体として考えると、人間の目は比較的平べったい顔の前面に並んでついており、目を開けると自然と鼻の先が示している方向を向く、反対側を見ることはできない。
 しかし、たとえば首を曲げて下を見ると、前を向いていることにはならない。あるいは、周囲の他人の多くが見ている方向に背を向けていると後ろ向きになる。なので、「鼻の先が示している方向を向く」は変えられないが、
「前」がどこかという定義次第で「前を向いてるかどうか」は変わる。

 2.心の中の「前を向く」ということ。
 言葉はすべて、生まれて以降、他人から与えられた言葉の構成でできあがっているが、そこまでいくときりがない。
 生きてくる中で、自分がこうありたいと思う「ポジティブな」生き方を示す言葉がその中に育って来る。それが「幸せになりたい」(幸せとは何か)、「成功したい」(成功とは何か)、「楽しく生きたい」(楽しく生きるとは何か)……などとして、その中に「前向きに生きる」「(幸せになるために、成功するために、楽しく生きるためにetc.)頑張る」があるのだろう(この中に、たとえば「他人を殺したい」「他人を思い切り傷つけたい」という思いがあることは否定しないが、おそらくほとんどの人は抑制する)。
 「前を向く」が、ほぼ全員にとって、自らがこうありたい姿、ということは、肯定されよう。
 それを他人から言われることが、つらい時はつらい

 しかし、つらい時に自分の中に入ってくる言葉は、とにかくほぼ全部がつらいのではないだろうか。つらく感じるのではないだろうか。強制されているように感じるのではないだろうか。

 その、自分を傷つけたかもしれない言葉が、後日、自分の中で新しい芽を生み、成長していく糧になるのではないだろうか
 筋トレで、筋繊維がいったん破壊され、栄養と休息の後に、破壊される前よりも強く、太い状態で回復していくように。

 そうだ、他人事で自分は語っている、ようにも感じる。
 が、同時に自分もそうやって躓いて生きてきた。
 傷つきながら、傷つけながら、生きていく。

自分の「長い目で見れば……」は、小さな失敗の積み重ねの後に

 他人の言葉に「いちいち」左右はされない
 しかし、親による教育から始まって、家族、交友、恋愛・婚姻関係などで長い目で見れば、左右されている
 それもまた人生、よほど「悪い方向」に流されなければ。
 そんなことを考えるようになったのも、大したことない人生でも、大したことないけれどいろんな失敗を重ねたからで、だから、とにかく生き続けてくると、「ああ、なんでもありだな」と、開き直れる。そんな「あきらめ」を知ると、そこまで生きてきた意味もあるかと思う。ないかもしれないけど。
 それは、自分だけが知る、自分だけの感覚、なのか。

 皆さまのご健康を。 

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