「“サイレンス”から失われた信徒を求めて」世界遺産の語り部Cafe #13
今回は、日本🇯🇵の世界遺産【長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産】についてお話していきます。
“潜伏キリシタン”に焦点を置いた世界遺産
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、いわゆる鎖国をしていた日本国内において、文字通り“潜伏していたキリシタン”に着目した世界遺産です。
仏教徒などにカモフラージュしていた「隠れキリシタン」とは根本的に違って、禁教時代に離島や僻地に潜伏し、教えを守り抜いたキリスト教徒のことを指します。
その点からも特殊な世界遺産登録の一例と言えますが、日本政府としては当初、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」といった名称でユネスコに推薦書を提出していました。
ところが、諮問機関であるICOMOS(イコモス)は「評価基準を満たしているとの証明が不十分」と指摘した上で、「禁教期に焦点を当て、推薦内容を見直すべきだ」と突きつけます。
指摘を受けた日本政府は、推薦をいったん取り下げて再検討を重ね、名称に「潜伏キリシタン」を盛り込みました。
構成遺産を潜伏キリシタンが暮らした集落を中心とする一方、禁教期とは関係ないキリシタン大名の城跡などを除外。
内容を再構成、再推薦したことにより、晴れて2018年の世界遺産登録に至りました。
五島列島にはなぜ潜伏キリシタンが多い?
「潜伏キリシタン関連遺産」のように、地理的に離れたいくつかの文化財を、ひとつのストーリーの下でひとまとめにした世界遺産を、「シリアル・ノミネーション・サイト」と言います。
その構成資産は、日本に現存する最古のキリスト教建築物である長崎市の「大浦天主堂」を始め、平戸市、佐世保市、五島列島の重要文化財や集落、または熊本の天草市の集落など多岐に分布しています。
中でも、大小合わせて140あまりの島々から成る「五島列島」は、島民全体の4分の1にあたる約25%がキリスト教徒です。
江戸後期の18世紀末、「遠藤周作」が日本におけるキリスト教弾圧をテーマに描いた『沈黙』の舞台、九州本土の外海地区から多くの潜伏キリシタンが離れ、五島列島に新天地を求めました。
小説のタイトルである『沈黙』は、人々が危機や苦難に直面する時、神が救済を求める人々の祈りに対して救いの手をさしのべず、あたかも沈黙しているかのように見えることを指した「神の沈黙」から来ています。
幕府の苛烈なキリスト教弾圧に対する、“沈黙(サイレンス)”という部分が大きなテーマとなっている作品で、近年ではマーティン・スコセッシ監督による映画化でも話題になりましたね。
五島列島への大規模な移住の背景には、五島列島の未開の地を開拓する人手を欲していた五島藩が、人口の多い九州本土の大村藩に協力を求めたという事情があったと言われています。
つまり、“未開の地の開拓を条件にキリスト教の信仰を黙認”していた訳です。
五島列島を目指した移民の多くが、潜伏キリシタンであったことも納得の理由ですよね。
島原・天草一揆のカリスマ“天草四郎時貞”
五島列島の潜伏キリシタンはひっそりとキリスト教を信仰した一方、島原・天草地方のキリシタンたちは「島原・天草一揆」という手段に出ました。
いわゆる島原の乱は、禁教に反発を覚えるキリシタンたちによる一揆だと長年言われてきました。
しかし、近年では、島原藩主による過重な年貢負担や苛政、キリシタンに対する過酷な取り締まりや迫害、凶作・飢饉など、複雑な原因が絡み合っていたと考えられています。
反乱軍を率いていたのは、圧倒的なカリスマ性を背景に、弱冠16歳で総大将となった「天草四郎時貞」です。
天草四郎ら反乱軍は、廃城となっていた「原城」に籠り、3ヶ月にも及ぶ籠城戦を展開しますが、最後には食料も無くなり、力尽きることになります。
壮絶な籠城戦の舞台となった原城は、国の指定史跡として世界遺産の構成資産のひとつに数えられています。
黒船の来航と歴史的な“信徒発見”
島原の乱の鎮圧を経て、江戸幕府による禁教令が緩和された最初の転機は、「マシュー・ペリー」率いる黒船の来航でした。
鎖国を続けていた日本は、開国を差し迫られたことにより、日米修好通商条約が締結されます。
条約に従って外国人居留地が設置され、居留地に居住するフランス人に向けて教会を建てる許可が下りたことで、1864年に「大浦天主堂」が竣工されました。
当時、物珍しかった洋風建築の大浦天主堂は評判となりますが、司祭を務めた「ベルナール・プティジャン」は、長崎の地に信徒が未だ潜んでいるわずかな可能性を信じ、自由に見学を許可していました。
ある日、プティジャンが庭の手入れをしている時、15人ほどの男女が訪れたので聖堂内へ招き入れたところ、彼らがキリスト教を信仰していることを告白します。
“信徒発見”の報を、プティジャンより受けたフランス本国や欧米諸国は、日本政府のキリスト教弾圧に対して待ったをかけたことで、やがて日本でのキリスト教信仰が解禁されることになりました。
“燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや”
蛇足ですが、禁教時代のキリスト教信仰を物語るエピソードとして、大河ドラマ『龍馬伝』で坂本龍馬の愛人だったとされる長崎の芸者「お元」が、龍馬の助けを借り、信仰の自由を求めてイギリスに亡命する話があったのを覚えています。
このエピソード自体は、龍馬が日本初の株式会社である「海援隊(亀山社中)」を通じ、「トーマス・グラバー」と繋がりがあったことによる創作という気もしますが、今にして思えば、ちょうど時代背景的には日本のキリスト教信仰における過渡期だったんですね。
長崎を後にした龍馬はそれから、旧態依然の幕府を「大政奉還」させることで“倒幕”は果たしたものの、内に秘めた「世界に出たい」という夢は果たされることなく暗殺されてしまいます。
人々の信仰の自由や、坂本龍馬の柔軟な思想は今風にいえば、“ダイバーシティ(多様性)”の尊重に相当するのかもしれませんが、幕末の世にはまだまだ時代を先取りし過ぎていたのでしょうか。
“燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや”の意は、まさに積年の時を経て実感するものかもしれませんね。
【長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:2018年登録:文化遺産《登録基準(3)》】