「古代遺跡の世界遺産とアレクサンドロス東征記(後編)」世界遺産の語り部Cafe #26
今回の世界遺産は、前回に引き続いて『アレクサンドロス東征記』に関連するイラン🇮🇷の【ペルセポリス】についてお話していきます。
↓前編はこちら↓
古代アケメネス朝ペルシャの都
「ペルセポリス」は、アケメネス朝ペルシャの最盛期、紀元前518年のダレイオス1世治世時代に建設された都市です。
古代ペルシャの皇帝たちは、季節によって新年にはペルセポリス、夏はエクバタナ、冬はバビロンの宮殿で過ごすなど転々として居住していたそうです。
ギリシャ語で「ペルシャ人の都市」を意味するペルセポリスの建設に際しては、物資や人材が「王の道(Persian Royal Road)」と呼ばれる道路網を利用して集められました。
ペルセポリス遺跡の入り口となる、幅7メートル、111段の大階段を登っていくと、一際印象的な左右に人面有翼獣神像が並ぶ「クセルクセス門」がやがて見えて来ます。
門を抜けると、人々が王に貢ぎ物を捧げていた“アパダナ”と呼ばれる「謁見の間」に行き着きます。
アパダナの周囲には、ゾロアスター教における最高神アフラ=マズダのレリーフが入り口に刻まれた玉座殿などが立ち並びます。
アフラ=マズダは、自動車メーカーのマツダが社名のスペリングに引用したことでも知られますね。
アケメネス朝ペルシャにおいて、ペルセポリスはダレイオス3世の治世時代まで、首都スーサに次ぐほどの中心都市でした。
しかし、東方遠征を敢行した古代マケドニアのアレクサンドロス大王による侵攻により、紀元前330年に滅亡を迎えます。
それから20数世紀の時を経て、1931年の発掘調査で出土したベヒストゥン碑文に刻まれていた文字は、イギリスのサー・ヘンリー・ローリンソンによって解読された「くさび形文字」であったことでも有名です。
『アレクサンドロス東征記』による影響
アレクサンドロス大王が敢行した東方遠征については、2世紀の歴史家アッリアノスが『アレクサンドロス東征記』という伝記を残しています。
アレクサンドロスは、ペルシャ世界では畏怖を込めて“イスカンダル”と呼ばれていました。
イスカンダルと呼ばれた理由はアレクサンドロスのスペルの冒頭が、アラビア語の定冠詞“Al”としていつしか独立した上、アラビア語なまりで“アル・イスカンダル”と呼ばれるようになったためです。
東方遠征は、最終的にインド付近まで到達したことでその武勇伝が伝わり、アレクサンドロスをモデルにした神、スカンダが誕生します。
スカンダは、仏教を介して中国へと伝わり、やがて海を越えて日本に届いた際に、“韋駄天”という言葉に転じて伝わっていきます。
アレクサンドロスの親衛隊“へタイロイ”
“韋駄天”という言葉は、現在では“足の速い人”について指しますよね。
その言葉が示すように、アレクサンドロスは「ヘタイロイ騎兵」と呼ばれる親衛隊を引き連れ、電光石火の突撃を得意としていました。
ヘタイロイには“仲間”という意味があるように、親衛隊はアリストテレスの設立した「ミエザの学園」で、アレクサンドロスとともに学んだ学友たちで構成されました。
アケメネス朝ペルシャの王「ダレイオス3世」と対峙した「イッソスの戦い」でも、中央は老将のパルメニオンのファランクスに任せ、アレクサンドロスはヘタイロイ騎兵とともに自ら突撃を敢行します。
ダレイオスは、アレクサンドロスの鬼気迫る突撃に恐怖を覚え、その場から敗走を開始します。
また、この時の様子は「ヴェスヴィオ火山」の噴火で街ごと埋没した「ポンペイ」から出土しているモザイク画にも描かれています。
ポンペイが火山灰の下に埋もれたのは、西暦79年のことで、歴史に伝わるアレクサンドロスの東方遠征が、当時のヨーロッパ各地にも伝播していたという客観的事実が何とも面白いですよね。
“私は勝利を盗まない”
イッソスの戦いで敗戦を喫したダレイオスは、アレクサンドロスがエジプトに向かう合間に準備を重ねており、15万ほどの大軍を編成しました。
全体で4万のマケドニア軍は、圧倒的な数的不利が否めない中で、敵軍が目視できるほどのところで進軍を停止して兵を休ませてから会議を開きます。
ペルシャ軍の大軍を前にした古参兵のパルメニオンは、
と進言しますが、
と、アレクサンドロスはパルメニオンの提案を一蹴します。
しかし、この決断は結果的に功を奏することになります。
ダレイオスは実際、パルメニオンが言うように必ず夜襲をかけてくると想定して一晩中、兵を待機させていました。
そのため、睡眠不足で疲弊し切っていたペルシャ軍に対して、前夜に熟睡したマケドニア軍は万全の状態です。
アレクサンドロスに至っては、当日の朝になっても一向に眠りから覚めず、彼を起こしに出向いたパルメニオンは、その強心臓に呆れかえったというエピソードが残っています。
アレクサンドロス率いるマケドニア軍が、宿敵アケメネス朝ペルシャと「ガウガメラの戦い」で会戦したのは、紀元前331年10月1日の事とされています。
ガウガメラの戦いが起きた11日前、月食が確認されたとの記述が残っており、天文学的な観点から月食は紀元前331年9月20日に起こったとされ、そこから逆算して正確な日付が導き出されました。
アレクサンドロスは、この時もヘタイロイ騎兵とともに、ダレイオスのいる中央目掛けて突撃します。
鬼気迫るアレクサンドロスの姿にイッソスの戦いでの光景が蘇ったのか、ダレイオスは再び戦場から逃亡しました。
王の逃亡で士気が急落したペルシャ軍は完全に瓦解してしまい、この敗戦が決定打となってペルシャの都ペルセポリスは陥落することになります。
「ゴルディアスの結び目伝説」
マケドニア軍の勝利は、遠征の名目であるエフェソスら「小アジア(現アナトリア半島)」のギリシャ諸国を解放に導きました。
東方遠征に出たアレクサンドロス一行が、最初の冬を迎えたフリギアの都「ゴルディオン」には、このような面白い伝説が残っています。
遠征軍の到着より数100年前、争いで後継者を失ったフリギアでは、神託で次の王を決めました。
“王は牛車に乗ってやってくる”とのお告げの通り、貧しい農民「ゴルディアス」が牛車に乗って通りがかり、神託に従ってゴルディアスは王として即位します。
自身の名を冠して「王都ゴルディオン」を建設したゴルディアスは、神託の時乗っていた牛車を麻糸で柱に何重にも括り付けて、“この結び目を解くことができた者こそアジアの王となるであろう”と、予言します。
それから多くの者が挑み、解くことが出来ずに断念されてきた結び目に、アレクサンドロスも挑戦したそうです。
ところが、アレクサンドロスは早々に短剣を持ち出して、結び目を一刀両断に断ち切ってしまいます。
と、それから言い放ったという「ゴルディアスの結び目」の伝説は、鮮やかに難題を解決することを指す「快刀乱麻を断つ」という言葉として日本にも伝わりました。
【ペルセポリス:1979年登録:文化遺産《登録基準(1)(3)(6)》】
【ゴルディオン:2023年登録:文化遺産《登録基準(3)》】