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曇りの日

先日、実家の猫が亡くなった。9歳だった。
予定より1日前倒しに帰省した日の深夜のことだった。前兆はなく、私たちが気づいた時には心臓が止まっていた。なんとか病院を見つけ、すぐ向かったが遅かった。
医者曰く、大動脈にできた血栓が原因だという。水面下で心臓病が進んでいたために起きた病らしい。猫の心臓病は血液検査では発見できず、外見上はとても元気だったためきちんとした検査を行うことは検討さえしなかった。きちんと観察していて未然に防げる病であれば、実家暮らしの親と兄弟を恨むこともできたのに、予兆がなければどうすることもできない。やり場のない怒り、悲しみ、無気力感。
亡くなった当日、普通に出勤していった父には驚いた。家族が1人減って、どうしてそんなに冷静でいられるのだ。正気を疑った。普段通り朝食を用意する母も恐ろしかった。そして、時間通りに腹が空く自分にも。
昔はもっと涙もろかった。ちょっと失敗しては泣き、その様を周囲にバカにされまた泣いた。体の大きかった私は「みっともない。図体デカいんだから男らしくしろ」としばしば怒られた。
あまり泣かなくなったのは、高校に上がり、本が友達になってからだった。友達がいない寂しさをたくさんの主人公に埋めてもらっていた。「大人っぽいね」と言われるようになったのも同じことからだった。家族を失って泣けなくなるのが大人なら、子供のうちに死んでおくべきだった。中学生最後の日、首吊りを躊躇うべきではなかった。
突如生き甲斐を失った私は、その日普段通り朝食を食べた。普段通り着替え、ダラダラとテレビを見始めた。亡骸は目の前にある。この時点で亡くなってから4時間ほど経っている。よく晴れていた。
本当にもう動かないんだ。寝てるだけじゃないんだ。死後硬直って本当にあるんだ。
亡くなってから3日ほどで、火葬まで済み、感傷に浸り間も無くお骨が帰ってきた。こんなに早く終わるのかと驚いた。そのスピーディーな仕事が私の気持ちを置き去りにした。
3日ほど学校を休んだ。先生方にも休む旨を伝え、了承いただいた。何もしなかった。本当に、何もしなかった。何もできなかった。
10月10日、東京はよく曇っている。授業を終え、本屋へ向かう。目的はない。学校終わりのルーティンだ。目についた本を手に取っては戻す。それだけが楽しい。金も趣味も友達もない私の最高の暇つぶしだ。
今日は珍しく買い物をした。『乱読のセレンディピティ』まだ読んでいなかった外山滋比古先生の本だ。彼の語り口の軽さが好きだ。読書する機会は昔に比べるとずいぶん減ったが、彼の本は読める。内容はほとんど頭に残らないが、読める。
本屋を出て駅に向かう途中、うどん屋が目に入った。とり天がすごく美味しい店だ。まだ4時だが、早めの晩飯にしよう。
一番安いうどんととり天を注文する。ほとんど待つことなく、頼んだ品が出て来、会計を済ませる。
相変わらず美味い。170円とは思えない。鶏肉を「濃厚」と形容して拍子抜けしないのはここだけだ。とてもトータル500円強の満足感とは思えない。
店から駅へは横断歩道を渡ってすぐだ。赤信号が変わるのを待ちながら、この文章を書くことを思いつく。今日のようによく曇った日は、気分が落ち着いて、晴れた時より晴れやかだ。いくらかまともな文章が書けるだろう。
電車に乗り、何も考えず書き始める。どうせ誰も見ないのだから、真っ暗な文章を書いてやろう。
猫は亡くなる。それでも世の中は動くし、とり天は美味い。前向きになんてなれない。未来に背を向け、後ろ歩きで進んでゆこう。

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