「常識」とは、「常に変わる認識」である。
8年ほど前に、こんなの書いてました。
常識は疑え。
↑だいぶガツガツしていますが、世の中に憤っているのは昔からです。
「常識」という枠に、当てはめられるの嫌いです。
常識は疑え。
常識とされるものは疑った方がいい。
それ、誰かが作ったルールですから。
それ、支配者層に洗脳されてるやつですから。
「常識」とは、「常に変わる認識」ですよ。
常識って、絶対的じゃなくて、相対的なものなんですよ。
「常識でしょ?」って、
その人がそう思ってる(思い込まされてる)だけで、絶対じゃない。
マスクするしないの常識
マスクするのが常識になってきてますが、
コロナ以前はしないのが常識です。
というか、マスクは病人がする、症状がある人がするのが本来の常識です。風邪にしても、花粉症にしても、無症状な人、健康な人はつけないのが常識です。
いや、むしろ、マスクしようがしまいが、個人の自由です。
不安で怖いならすればいいし、したくないならしなければいい。
でも、マスクしてもしなくても、感染症予防にはなりませんからね。
マスクをすることによって弊害の方が多いですし、
実際に、私はすると体調悪くなるので、しません。
それに関して、勝手な正義感で、常識を振りかざされても困ります。
「常識」は、「常に変わる認識」。
今の世間一般の常識では、マスクをするのが常識かもしれない。
でも、常識は、常に変わっていくものなんですよ。
近い将来、またマスクをしない日常、常識が戻ってくるでしょう。
「諸行無常」と言いますが、あらゆることは常に移り変わるものです。
ずっと変わらないものなんてありません。
このコロナ詐欺、茶番もいずれ終わるでしょう。
「識」とは
「識」とは、物事を「識別」する能力であり、
「知識」がないとそれはできません。
いや、「知識」は知ってるだけなので、
経験が伴う「見識」を高めていかなければなりません。
そのためには、「意識」を変え、
自ら率先垂範していかなければなりません。
そして、自らに絶対的な自信を持てた時、
それは「胆識」となります。
「自信」とは
自分の考えを、自信を持って言えないのは、
それは知識と経験が少ないからです。
自分が知ってることは、自信を持って、こうなんだよと言えるでしょう。
自らが経験したことがあることは、こうなんだよと言えるでしょう。
「自信」があるかないかどうかは、
「情報の質」と「情報の量」に基づく自分自身の判断・解釈によります。
人は、自分の中の知識と経験しか物事を判断できません。
だからこそ、知識と経験を増やしていく必要がある。
それが生きていく上での道標になるから。
「自信」は、「自身」とどれだけ向き合ったかによります。
自身の嫌なところ、認めたくないところを「認識」して、
「意識」を変え、「知識」と「見識」を増やしていくことです。
それが、誰かと比較する相対的なものから、
絶対的な自信へと繋がっていきます。
周りに流されるな。自分の意見を持て。
自信がない人は、自分と向き合いきれてない人です。
他人に流されるということは、自分の意見がない人です。
それって、自分の人生を生きてないってことです。
常識と言われても、それに対して自分はどう思うか?
あらゆる出来事に関して、自分はどう思うか?
あなたの考えはどうなの?
日本人は戦後、自分の意見を言わないように、
考える力を失われるように教育されてきました。
ディスカッションできないんです。
でも、欧米では自分の意見を言い、ディスカッションするのが普通です。
意見が違うのは当たり前。
でも、自分の考えを言う。
相手を尊重する。
そこに信頼と尊敬の関係があります。
自分自身を尊重できない人が、相手を尊重できるわけないし、
自分自身を信頼できない人が、相手を信頼できるわけがありません。
自分を愛せない人が、相手を愛せるわけがありません。
まずは、自分を大切にし、自分を信頼し、自分を愛すること。
そこに愛はあるのかい?
結局、すべては愛であるというところに落ち着きます。
愛と慈悲。
プラスして、慈悲の心です。
相手を慈しみ(慈)、あわれむ(悲)こと。
相手の苦を取り除いて、楽にしてあげること、これを「慈悲」と言います。
キリスト教的な「愛」と仏教的な「慈悲」。
二つ合わせて「慈愛」の心です。
「慈愛」の心を持つには、まず「自愛」すること。
言葉って面白いですよね?「言葉」って、「音」って、凄いんですよ。
字は当てはめであり、そもそも「音」から始まってますからね。
神道では祝詞を大切にし、仏教ではお経を大切にし、
キリスト教では聖書を大切にし、イスラム教ではコーランを大切にします。
みな、言葉の力を信じています。
それを「言霊」と言います。
言葉の力があります。音の力があります。
だから、良い言葉を発した方がいい。
今の世の中でガッカリするのは、
マスクをしてる神職、僧侶、牧師がいることです。
言葉、音の力を大切にするのが、本来でしょう。
末法の世だなぁと思います。
マスクして読む祝詞、お経、祈りが神仏に届くでしょうか。
マスクをして語りかける言葉が、人々に届くでしょうか。
目に見えない世界を信じる人たちが、
目に見えないウイルスに怯えているのってなんだかなぁと思いますね。
ま、これも私の勝手な主観であり、
正しいとか間違っているとかいう気はありません。
これは、私の意見であり、あなたの意見と違うかもしれません。
それは、知識が違うし、経験が違うし、認識が違うからです。ここに良いも悪いもありません。
私の意見を書いただけであり、これを読んだあなたが何を思うかですし、あなたにはあなたの意見があるはずです。
あなたの意見、考えを聴かせてください。
お互い、否定をせずに肯定しようじゃありませんか。