大人薬

小さい頃から周囲の言動とかルールとか、自分の中の正義と相容れなくて受け入れられないものがたくさんあった。幼少期の小さな世界にも聞き捨てられない言葉や指摘せずにはいられないような見るに耐えない行為はたくさん存在していて、それを伝えるだけの言語力を早くに得てしまったせいでたくさん衝突した。相手に伝わる言葉選びをするには私の語彙力は稚拙なため、結果的に、私の簡単で長ったらしい文章あるいは短くも聞き慣れない単語ばかりの文章の2択で、互いの歩み寄ろうとする気持ちは削がれるばかりである。
小学校では難しい言葉選びと言われ、中学では珍しい単語を使うと言われ、高校は伝えることを諦め、大学で奮起するも言葉選びを好きだと言ってくれる一部の人を除けば、長文を見るたびにメンヘラと一蹴された。精神科に通ってるのは、可哀想でもヤバい奴でもなくて、私が生まれつきの思考の問題だったり自分が拘って大切に守ってきた頭や心を、無理矢理休ませるために一時的にでも世界を諦められるように、丸く包み込む方法が薬だっただけのことなのに、やれ精神疾患だ障害者だと、自分の無知を誇らしげに振り翳して、優しさのふりした好奇心と偏見で腫れ物のように触るのをやめろよ。
喜怒哀楽がなくなって、泣くのも笑うのもできなくなったとき、たしかにうつ病の診断も薬も私を守ってくれたけど、薬でストレスや感情の起伏をある程度コントロールすることで、衝突してた様々な人や出来事をもそつなく微笑んで受け流せるようになってしまった。怒る場面も悲しむ場面もそんなこともあるよねって笑ってあしらえるようになってしまった。日常で閉じ込められるようになったエネルギーは行き場を失って真夜中、希死念慮に化けて飛び出すようになった。人前の"私"を終えた深夜2時、笑って閉じ込めた全部がたくさんの死にたいになって排出されるのに、歩み寄ってくれる友人にもやはり"私"でしか接することができない。
いつからこんなにつまんない大人になったんだろうな、でもやっと大人になったって感覚すらある。
満員電車で私を突き飛ばして席を取るおねえさんも、駅のホームで狂乱して朝からダイヤを乱すおじさんも、ため息ひとつで無かったことにできたとき、大人らしい大人になったと思いながらも、こんなふうに丸くなることが大人になるってことなのかと少し虚しくなった。
そんな惰性で大人になるような、わかってるふり、気づかないふり、うまくやれるふりをしていくことが大人になるということなら、きっとこの先の私は毎夜シャワーで流しきれなかった数多のストレスを薬で飲み込んで、翌朝にはまた大人な私で外に出るんだろうと思う。
大人になるための薬だなんて、最高で最低な薬だ。もう少し子どものままでいいから、尖った溢れ出るエネルギーを馬力にしたいから、早くこんな薬やめたい。

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