同情は時に人を傷つける武器となる。
就活生に私の就活の体験談やアドバイスを一部の養分にしてくてたらいいなという思いでこのnoteを始めました。
しかし、今回それとはいったん離れて、甲子園が中止になったことについての意見をしている方に対しての私の意見を記事にしたいと思ったので綴ります。
私はあるスポーツにひたすら熱中していました。県内有数の強豪校に進学し、夜は22時くらいまでそのスポーツに熱中していました。具体的なことは控えますが結果もそれなりに練習量と比例してついていたほうだと思います。
最近、私のtwitterやinstagramなどで私の友人や先輩、後輩、多くの方々が甲子園中止や各スポーツのインターハイ中止についてツイートしているところを良く散見します。
例えば、、、
「甲子園が中止になったら、今まで何のために練習してきたのかよくわからなくなるよな。」
とか
「シンプルに可哀そう」
とか
「俺が同じ立場だったら〜〜〜だな」
とか
私は、このようなツイートや発信がより学生の傷を深くしているのではないかと思います。
つまり、同情のつもりで、また励ましのつもりで、ツイートをしているのであれば私はそのようなツイートをやめるべきだと思います。
同情というのは、時に人間に寄り添うことも出来ますが、その逆に心の傷を深めてしまう行為でもあります。
こんなにも人口が増大し、活気に溢れ、人の注目を集めることが出来るようになった大会の中止は初です。
第二次世界大戦の影響で中止になって以来の全国大会中止ですが、客観的な付加価値(競技人口・集客数・大会の活躍次第ではプロ野球選手など)が付いた全国大会という意味で見て、今回が初の中止だと私は思っています。
もちろん大会の価値というものは風化することはありませんが、それとは別の視点でみても、そもそもの規模が違います。
野球を例に挙げると、単純に競技人口が増え、戦後再開された1946年の甲子園予選参加校数は746校です。
それに比べ、2019年は3730校です。
ちょうど5倍の数字です。
単純に考えると、2019年時点で大会の規模は5倍にまで跳ね上がり、甲子園に出場できる確率も、一番激戦の愛知県(188校)で約0.5%です。
そんな規模のある、そして夢に溢れた大会が中止になった学生の屈辱というのは、今回経験した学生のみにしかわかりません。
当然私にも、今回の中止に対する学生の屈辱感なんか分かるはずがありません。
「同じスポーツを経験した者同士だからなんとなく気持ちが分かる」
とか思っている人は勘違いしないでほしいです。
もし、高校野球の指導者の方が偶然、このnoteを見ていたら、この点については注意してほしいです。
繰り返しますが、こんな経験したのは今回の学生が初めてなのだから。
今回の件に対して、どう思うのかは今回の学生にしかわかりません。この悔しさを通して養分に変え、人間として大きく成長するか、それとも色んなことが投げやりになって道を踏み外す学生もいるかもしれません。
そっと、、、
そんな学生に寄り添ってあげましょう。
結果を求めることも大切ですが、努力の過程が大切であるとスポーツや指導者を通して学ぶことが出来た学生は、この先将来、大きな壁を乗り越え続けることが出来るたくましい社会人になることかと思います。
「結果が出なきゃなんも意味がない!」なんて思っている人も少なくないと思いますが、結果なんて努力の仕方や過程、熱量に不足・問題がなければ、ある程度のところまでなら出せるのだから。運もありますが。
今回の学生には、頑張り続ける大切さを見失わないでほしい。これは私の単なる独り言です。
このnoteは20代以上の利用率がほとんどを占めているため、高校生の目にあまり触れることなく、学生のお子さんがいる方や比較的高校生や学生とコミュニケーションをとる方に対してのアドバイスを、学生の大半をスポーツに費やしていた私なりにnoteに書かせていただきました。
ではこの辺で失礼いたします。下手な文章で申し訳ございません。。。