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「テセウスの舟」思考実験

こんにちは。題名と写真をみて、つい最近まで人気だったあのドラマの考察?と思った人すいません違います。正直一話も見てないです泣 実は「テセウスの船」という思考実験からあのドラマの名前もきているですよね。てことで今日は「テセウスの舟」をどう考えるか僕の意見をただひたすらに語っていきます。余談ですが、僕はこういったパラドックス系の疑問が大好きです。

そもそも、どういう思考実験なのかというと、もとはギリシア神話の一部からの抜粋らしいのですが、要点だけわかりやすく説明しますね。     まず木でできた船をタカシという男が所有していたとしますね。その船は毎日使われて、波にやられ、座礁したりしてどんどん古くなっていきます。その船を今度は息子のサトシに渡し、そのまた息子のコウタにも渡していくと仮定します。木でできているため、ある一部分がだんだんと老朽化していきます。その朽ちた部分をサトシやコウタは新しい木にかえて補強しながら代々使用していました。コウタはタカシおじいちゃんからの形見である船をいつものように修理した際に、パーツがすべて元の船の部品ではなくなった事に気づきました。ここで疑問が1つうまれます。果たして、この時この船はタカシの船と言うことができるのでしょうか?という思考実験が「テセウスの舟」です。

どう考えますか?笑 もともとの型はタカシの船であるわけだから、これはタカシの船といえる!と考えた人、質問です。仮に古くなったパーツを全て保存しておいて全ての部品が変わった瞬間、古いパーツで組み立てた舟と新しいパーツでできた舟、二種類ができます。こうなると、その新しいパーツの舟はただの複製であって、古いパーツで組み立てたこっちの舟が本質的にタカシの舟と感じませんか?このことから同一性とは形相を根拠に証明することはできないことがわかります。それなら、なにを根拠に同一性は証明されるのか? 実は同一性を証明できるのはその舟自身ではなく外部にあります。 わかりやすく日本という国で考えましょう。明治維新のあとから今の「日本」という国の概念が浸透していったわけですが、あの頃から今まで日本が「日本」である事実は変わりませんよね。たとえそれを構成する国民が変わっても(明治生まれでまだいきている人がいないため)日本という国はずっとそこにあるわけです。つまり、連続性をもちながら同一性を保っているんです。一見相反する言葉が並んでいるように思えるので、それぞれ説明していきましょう。まず連続性というのは常に変化し続けている状態です。国も舟も人も全く同じ状態を保つっていうのは不可能ですよね。国民は絶えず、入れ替わっているし、舟はわずかでもボロくなっているし、人は刻一刻と年をとっている。キーとなってくるのは同一性という言葉です。上でも述べたように同一性とはその本質自身とは関係ありません。あくまでも、同一性はその当該対象を観察している心理状況によって生まれるものなんですよ!つまり連続性は本質に依存しているけど、同一性というのは外的存在によって決まるので、国や会社は連続性をもちながら同一性を保っているということができるのです。

なので僕自身の答えは同一性は舟に由来するもではなく、その観察者の心情に現れるため、この舟この状況下(タカシからサトシ、そしてコウタに時間をかけて渡った)ではタカシの舟と同一性をもっていると考えることができます。つまりその舟の本質が変わったかどうかは論点ではなく、あくまでも観察者がその船を同一化したことに依拠するものだということです。

疲れましたね、はい。なんでこんなこと考える必要があるのかというと実はこの概念を抽象化すると、ぼくら人間はこの同一性虚構を多用しながら文明を築いてきたんですよ!上の例でだしたように、学校、国、血統あらゆるものが僕たちの同一化によって存在しているんです。それを同一のものとみなさなければ生きていけないから。例えば、A会社の社員が一人ぬけたから、A会社はもとあったA会社ではないんだ、とは思わないですよね笑 こういう思考実験をすると普段の日常をすこし違った角度でみることができると思います。それではまた、、、

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