第七章:むくい
ここは御所の奥の院。
いま白河法皇は、松明を手に、ひとり離れに設けられた祈りの塔に向かっていた。
五十を過ぎた歳の割にはしっかりしている足腰にものをいわせて、のしのしと進む。
夏の夜、足元からはいっせいに虫の音が響き渡り、空を仰ぐと満天の星が輝いている。
人払いをしているため、奥の院にあっても、見回りの者は誰一人いない。
人気のない中を、法皇は速足にひとり進む。
法皇の前には、今はただ、祈りの塔と呼ばれる三重の塔がそびえ立っていた。
白河法皇は、塔の前に立つと、観音開きの扉を両側に人ひとり分開き、身をくぐらせた。
お堂の中はひっそりとして暗い。
そこへ手に持ってきた松明を、壁際に設置している明り取りに、一つずつ火をつけてゆく。
ぼうと、中央の座敷を囲むように、数体の大きな仏像が浮かび上がった。
白河法皇は、中央に拵えてある簡易なつくりの座敷に腰を据えると、腰に携えてきた竹筒に口をつけた。
中には白湯がたたえられている。
法皇はそれで一息つき、呼吸を整える。
それから、目の前に鎮座する仏像を仰ぎ見ると、両の手で印を結び、おもむろに呪言を唱え始めた。
腹の底から響き渡るその声は、ひんやりとして冷たい塔の内部に響き渡る。
次第に、法皇の衣服が、どこかから吹き込んでくる風ではためきだす。
と同時に、法皇の体が紫色に光りだす。
やがて風と光により、塔内は目も開けていられないような有様となる。
「おおん」
法皇がそう最後の一言を唱え上げた時、それまで荒れていた風と光が止み、中空に一つの大きな影がただよっていた。
「どうした、呼び立てをして」
影は言う。
「申し訳ございませぬ。首尾のほどを知りたく思いまして」
かっかと影は笑う。
「せっかちじゃのう。大丈夫じゃ。龍の奴は獲物と一緒に縛ってあるし、あと数日もすれば干からびて天に召されよう。経の準備でもしておくのだな」
影はそう言うと、ばさりと翼で仏像の膝の上に降り立った。
あぐらをかくその足先には鳥の爪、全身を覆う体毛は羽毛、目は赤く光り、その口は大きな嘴である。
「天狗様、一度様子を見に行かれては」
白河法皇は首を垂れたまま訴える。
天狗、と呼ばれた影の主は、手で顎を支えながら、こう述べた。
「おぬしは心配性じゃのう。かつての失態をいまだに責めておるのか」
かつての失態とは、以前、京の都の裏鬼門に位置する柳葉という地で起きた内乱のことであった。
「めっそうもございませぬ。ただ、やはり念には念をと」
「心配無用じゃ。なんなら、おぬしが直々に出向いてもよいのだが」
「申し訳ございませぬが、私はこの国の長、自由のきかぬ身なれば」
天狗はかっかと笑う。
「そうであったのう、難儀なことよ」
ふ、と笑い、白河法皇はここでつと、天狗を仰ぎ見た。
「しかし、これで龍神様がお亡くなりになれば、法力僧どもの力を削ぐこととなり、政治もやりやすくなりまする」
天狗の目が鋭く光る。
「おぬしも悪よのう。この礼は、儂を祭る宮の増築で済ませよ」
「心得ておりますれば」
くつくつ、という笑い声と、かっかという笑い声が、重なるようにして塔の天井に吸い込まれていった。
この夜、祈りの塔を後にする天狗の上に、ひとつの呪が密かにかけられた。
それこそは、囚われの身を脱した龍神の、渾身の一撃であった。
それから数日後の朝、さらわれた衝撃からずいぶんと落ち着きを取り戻した貞観は、義円を訪れて我が身に起きたことの顛末を話して聞かせていた。
「やぁやぁ、まさか龍神様が捕らえられてしまうとは」
大きな洞穴に龍神様がいかにして捕らえられていたのかを、貞観はつぶさに語る。
その傍らでは、寺の小坊主たちが朝の修行に励んでいる。
それを細目で見やって、貞観はいまいちど、かみしめるように言った。
「目覚めた時は、命はないものと思った」
それを聞いて、義円も間を置いて答えることには。
「いやしかし、無事抜け出ることができてよかった」
「本当に」
どのような術を使ったかは知れなかったが、水瓶の水を得た龍神によって、貞観は気づくと自邸の厠の前に立っていた。
その後、龍神様は、元いたお堂に戻られたようで、義円たち法力僧の喜びはひとしおであったと聞く。
「そういえば、聞いたか」
義円が一目をはばかるようにして貞観に耳打ちをした。
「何を?」
義円は、にやり、と笑う。
「法皇がお倒れになったとか」
「なんと、まぁ」
そういえば、と貞観は思う。
陰陽師の一色殿が申されたことには、龍神が姿を消したのは、寺に恨みを持つ者の仕業だろうということだった。
そしてあの晩、自分は白河法皇がまさか企んだのではあるまいかと思い至ったのだった。
そう考えるかしないうちに、目の前が真っ暗になったのだった。
はた、と思い出した。
暗闇の中で、確かに「勘がいいのも困りものだな」と聞こえたのを。
あの声はもしや、白河法皇の手の者か――。
「どうした」
気づくと義円が不思議そうに顔をのぞかせている。
「いや」
貞観は首を振る。
そんな大事に自分が関わっているはずがない、と貞観は思う。
「顔色がすぐれぬが、男の霊はまだおるのか」
義円が問う。
「ああ、たまに出てくるよ。さびしい、としか言わないがね。それさえ慣れてしまえば大したことはないよ」
「たくましいな」
「めんどうなことだよ」
その一言を聞いて、義円がふっと笑う。
「そうそう、おぬしはそうでなくては」
「なんだいそれ」
ははは、と義円が笑う。
そう、めんどうなことだけれど、陰陽師の方々にも挨拶に行かねば。
そう思い、貞観はその日の午後に京へ向かった。
貞観の牛車が通り過ぎる大路の路上に、野良犬が輪になっているのを見止めたが、その中心で息絶えようとしていたのは、一羽の目の赤いとんびであったとか。