第九章 白河上皇と夢弦
真中と玄奈は、陰陽寮のとある一室にいた。
二人の前には、腕組みをした直属の上司が一人、机を挟んで向かいに座っている。
村からとって返した二人は、とるものもとりあえず、とにかく上へ報告せねばと休む間もなく陰陽寮の戸を叩き、直属の上司を一人つかまえ事の顛末をとくとくと語って聞かせたのだった。
目の前の上司は、二人の話を聞き、先ほどから目をつむり眉間に皺を寄せ、動かないでいる。
二人が、おそるおそる名を呼ぶ。
すると上司は重い口を開いた。
「あの土地が呪われていること、土着した源氏に対し、中央から派遣された平氏が好き勝手に振舞っていること、よく分かった。」
二人の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「これは上に報告する。お前たちはよく休みなさい。ご苦労だったね。」
言われて真中も玄奈も、緊張の糸が切れたのか、互いに涙ぐみ方を抱き合うのだった。
さて、この知らせは上司の言葉通り、すぐさま上へと伝えられた。
しかし正規の方法を経ないでこの知らせを耳に入れた人物が二人いた。
そのうちの一人は、時の権力者、白河上皇であった。
「そうか、封が破られるか――。」
身内の者から独自に知らせを得た上皇は、御簾の内でうなった。
上皇のいる奥の間には、女官や近衛が控えているが、誰も、一言も発しない。
上皇は続いてこう言い放った。
「なんとしてでも源平をさしおき、中央の力だけで再び封を封じるのじゃ。」
これには傍に控えている者たちが一斉に「御意」と返し頭を下げた。
たきしめられた香がくゆる中、上皇はかつての大戦を思い返していた。
あの秘密を知る者を一掃せねばならん――。
上皇の頭にあったのは、この一念であった。
上皇の屋敷には、上皇しか入ることのできない祈りの塔というものがあった。
それは三重の塔で、観音開きの門をくぐると来訪者を囲むように仏の座像がぐるりと鎮座しているという造りになっていた。
その夜、供の者を従えず、上皇はひとりこの塔を訪れた。
胸にある思いを秘めて。
定位置に着くと上皇は呪言を唱え始めた。
その声は暗く、厳しく、厳かである。
つと、一陣の風が舞ったかと思うと、一つの巨大な雷が塔のてっぺんに落ちた。
空に雲はない。
不気味な静けさの中、塔の中でだけはおおいに風が吹き荒れている。
上皇は手に持った数珠を鳴らし、声を荒げた。
「いでませい。」
風が一段と強くなる。
すると塔の中に黒雲が立ち込めた。
黒雲はみるみるうちに塔の内部を埋め尽くし、上皇の周りで渦を巻き始める。
どこからともなく、羽ばたきの音がしたかと思うと、塔の上部から声が降ってきた。
「久しいのう、狸よ。」
声のした方に目をやると、一等大きな梁の上に、一人分の影が見え隠れしている。
「どうした、折り入ってまた頼み事か?」
声の主はそう言うと、中空に姿を現した。
宙に舞う彼の姿は、ほかでもない、天狗である。
天狗は宙に坐したまま上皇を見下ろしている。
上皇は深く頭を垂れたまま、次の言葉をついだ。
「せんだってのつむじ風は見事でございました。」
せんだってのつむじ風というのは、先月都の東の端で起きたつむじ風のことである。
「このたびのお願いでございますが、先の大戦の折のあの事実を知る者を一掃したく。」
一息に言うと、上皇は両手を頭の上で合わせ、うやうやしく礼をする。
「ほ。おぬしにも恥というものがあったかよ。」
天狗がおどけて言う。
「後世に名の残る身なれば。」
上皇は静かに添えた。
「よかろう。礼は前回と同じく、儂をまつる社を百じゃ。それで手を打つとしよう。」
「はい、では、そのように。」
上皇の言葉が終わるのを待たず、塔のてっぺんに再び雷が落ちた。
かと思うと、天狗の姿は既に消えていた。
残された上皇の額に、おびただしいほどの汗の粒が光っていた。
さて、陰陽寮にもたらされた一大事を、正規の伝達方法によらず知りえた者がもう一人いた。
その者の名を、夢弦《むげん》という。
女は、宮中でも有名な、浮名を流すことで知られた女であった。
都の内で噂される事柄において、夢弦の耳に入らぬものはなかった。
「あら、都の裏鬼門にある柳場という土地でそんなことが。ほっほ。」
その夜も夢弦は、とある貴公子の胸の中でそのように笑みを浮かべていた。
それでは。
それでは上皇様がひた隠しにしておられるあの秘密とも関係があるのかしら?
夢弦は胸の内で、点と点をつなげてみる。
私は都のすべてを知っている。
夢弦はほくそ笑むと、するりと男の腕の中に自らの身を滑り込ませる。
その自負は、やがて夢弦自身を喰らいつくすことになるが、この時はまだ誰もそのことを知りえないのであった。