Do(する) ではなくbe(あり様)
我々お道(天理教)において、行動を追い求めるより、あり様が大切ではないかとということについて考察したい
行動をしようとすると 、するかしないかになってくる。我々の世界で言えば、にをいがけ、おたすけ、ひのきしん、おつとめなど(専門用語ばかり)をするかしないかになってくる
そうなると指標はしたか、してないか。になってくる。
にをいがけ(布教活動)を何時間したとか、何件回ったといったものが多いのではないか
数をこなすことに異論はない。特に20代などはがむしゃらにする経験もいいと思う。ただ問題なのはどんな心でやるかといったことだと思う。数をこなし、結果が付いてこない、自分が得意としないことをしていると心が疲弊していく。実際10年前の自分がそうだったからそうなっている人、そうなる人が出てくることは想像できる
そうなると、自分が好きなこと、得意だと思っていることでもできなくなり、できないと周りからも責められ、余計気持ちがしんどくなり、人によっては離れていく、しない方がいいといった負のスパイラルに入っていくのではないだろうか
また中には、そういった行動を苦にせずできる方が一定数いると思う。そういった方は、人の苦労を分かる方も大勢いるが、中には「なんでやらないんだ?」いった姿勢で話をしてくる人もいる。そういう人が多いとやらない自分が悪い気になるし、特に今はそういった旬だからと言われ、できない自分を責めたりしてしまうこともあるのではないか
一方、あり様を求めていくとどうなるのか。
あり様を求めようとする時、どんなあり様が理想なのかと考えた時、我々には教祖のひながたというお手本がある。
「物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自(おのずか)ら陽気ぐらしへの道が開ける」(教祖伝P.23より)と教えていただいている
ここでそのまま(物を施す)をしたら行動を真似することになる。大切なのは「執着を去る」とは心のありようはどういうことなのかという部分だと私は考える。
これは「ものへの執着を去る」=心以外、自分の体も含めて、全ては「かりもの」であると分かるということではないだろうか。と私は考える
自分のものではない、すべて借り物だと思えば、執着を去ることができるのではないだろうか。すべて自分の徳いっぱいにお貸しいただいているもの。
全てはお貸しいただいているという大きな親心に気が付き感謝ができれば、どんな中も心に明るさが生まれてくるのではないだろうか。我々にとってあり様を求めていくことは、ひながたを見つめ照らし合わせながら、今の自分の等身大ををきちんと見つめることではないだろうか
あり様をひながたに照らし合わせながら自分のありようを見つめた時、「かしものかりもの」が心に収まってくると私は考える
当たり前のことなどないと言葉にするのではなく、実感できるようになれば、そこから感謝の心が湧いてくる
その感謝の心から、何かさせてもらいたい、恩を返したいという思いで、行動する。これを我々はひのきしんと呼ぶ。ひのきしんはおつとめ、おたすけ、にをいがけ、すべての元になる態度である。だからひのきしんの態度がよふぼくの三信条に含まれているのだと考察する
我々があり様を求めていくと、普段を見つめ、ひながたと照らし合わせていく。その中で、より深く、大きく御守護を感じられるようになると、感謝の気持ちが増え、心に明るさと心の余裕が生まれてくるのではないだろうか。そうなってくると自分をじっくりと見つめ、更に自分を受け入れ、受け止める余裕が生まれてくる。「せねばならない」と行動で動く人よりも「あり様」を求める人はまず自分をあり様を見つめるところから御守護を感じ、そこから感謝でき、その喜びから笑顔になることができる。そうなってくると、自然と周りにも優しい心で接することができるようになり、周りも笑顔になっていくように感じる。そうなってくると、さらに今のありように感謝が深くなり、心の底から、この教えを知れてよかった、この教え通りにしたら間違いないと感じられるように思う。実際そう思えた人の言葉は魅力的に映り、自分もそうなりたいと周りに思ってもらえる存在になるのではないだろうか。この人を「なるほどの人」と呼ぶのではないかと考える
以上のようなことから、我々は教祖のひなたがたを見つめ、自分のあり様を見つめ、そこに力を入れていくと、行動を意識するよりも、個々が喜びにあふれる毎日を送れるようになり、その心からひのきんとして、人のために祈るおつとめ、人に、この道信じるとこんな幸せになれますよとにをいがけをしていく。その時には心の底に御守護への感謝の心、「ひのきしんの態度」で、喜びの心で人のために動くようになる。それは自分中心の心使い=ほこりの心遣いとは反対の心であり、自然と神の思し召しに沿う心遣いとなる。
そういった心で過ごすこと自体、その人がたすかっている状態と言えると思うし、よりたすかっていく種をまいていると思う
またその人は魅力的であり、言葉と態度に自然と力がこもり、人に伝わっても行くのではないだろうか
だから我々は今、あり様を求め、そこから感謝の心を持ちながら行動していく道を歩むべきではないだろうか