はじめての。
徒然なる僕。つれづれなるぼく。つれづれ。
僕のコラムはこんな題名である。
特にすることもなく、非常に落ち着いているときにでも書こうと思ってはじめた。
実際には、自分の言葉というものを、精神というものを、魂というものを、世の中に出してみる気になったのだ。
あわよくば、さきの三つのものが洗練されればよいなあとよくばる心がないということもない。
しかし、いざ書くぞというときには、そんな余計なことを考えてはつまらない。
あくまでも、つれづれ。
僕は、今年入学したとある大学生で、社会とか世間とか大人とか、とうていわからない。
だからといって、なにも世に出さないのは、このご時世もったいない。
僕にだって、あれは良いねとか、これはかなしいねとか、それはいやだねとか、感ずるものくらいある。
だから、書く。
「つれづれ」という言葉を使っているが、それは兼好法師のいう「つれづれ」にはとうてい及ばない言葉だ。僕には兼好法師のような冴えわたる頭もするどい目も持っていない。しかし、少しでも彼に近づけたらなと思う心はある。
とおい目標には、全世代が僕のものを読んでくれたらなと、すこし欲張ったものを設定しておこう。
社会人の方や、もう退職なさった方、そういう方々にも読んでもらいたいなあと思う。
青二才が、ひよっこが、なにをなまいきいいやがるとか、人生を知らぬばかめとか、そんな感じで読んでもらえれば幸いだ。
つまらんことがくどくどと続いてしまった。
今日はすこし古典について、つれづれに。
現代における古典の意義、なんていうぶっそうなことはかんがえない。
ただじぶんの足りない頭で考えたことしか書かぬ。
高校のころ、古典を学んだ。 ついこのまえのことだ。
お受験のためのべんきょうだからおもしろくもなんともなかった。
現代の高校生のほとんどがそう感じているのだと思う。
しかし、家で、そとで、おばあちゃんちで読む古典は、とてもおもしろかった。
まず、字がよかった。見やすい、流れるようできれい。それから音がよい。ついつい、声に出して読みたくなるようなしらべで、うまくいくと、すらすらよめる。
勿論、意味なんかちっともわかりはしない。
うそだ。
本当は、ちょっと意味を知っている。
高校で、学んだから。
しかし、意味なんか知ったところで、それこそ意味がない。むだである。
清少納言は「枕草子」 で、「春は明け方がよいのよねえ」なんて書いてないし、思ってもない。
『春はあけぼの』と書いて、 そうおもったのだ。
今ほどいそがしいこともなく、やることが多くなかった時代に、より多くのしぜんとおのれと対峙しなければなかった時代に、きびしく冷たい冬が去って、春風光り、あたたかい日が昇ってくる、
そして、春はあけぼの。
これほどそのときの実感のこもった字は、音は、ことばは、ない。
最近、こんな言葉が、すくなくなっているのかなと感じることがある。
逆に言えば、意味しかない言葉がふえ、はたまた、意味がない言葉もふえたのかもしれない。
否、そういう言葉しか知らない人がふえたのかもしれない。
そう感じているのは僕だけかもしれない。しかし、そういうことにたいして、わずかでもあやうい不安を抱えている人はいるだろう。
言葉の意味とは無力だとか、そんなことを言いたいわけではない。
でも、言葉に意味だけしかはいっていないわけがない。
意味は心じゃない、精神じゃない、魂じゃない。と僕は思う。
だからと言って、言葉には、意味の他に精神とか魂がつねに入っているとも思わない。世間のほめそやす、「すなお」な言葉にも入っていないことが多いと、僕は最近感じる。
そうすると、今の人には、精神とか魂とかいうものがないのであろうか。
こんなことをいう僕自身にもないのかもしれないと思うと、ざんねんだ。
『春はあけぼの ようよう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる』
縦に文章を掲載できないのがざんねんだ。清少納言はこう書いた。
さてぼくたちはどう読むのであろう。
むだな知識がついてしまって、かなしい。