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夏に囚われたおじさんについて
本題に入る前に。
タイトルに“おじさん”とあるが誤解がないように
先に言っておきたい。
別に僕はまだ誰からも“おじさん”と言われるような年齢ではない。
ただ、最近の身体の劣化と心境の変化から
“おじさん”という表現を用いることを許してほしい。
ハロー。ごほちゃんです。
秋が終わり、冬が始まって
年の瀬まで秒読みの日々のほんのスキマ。
ちらほらと街中ではイルミネーションや
あったかそうな格好をしたカップルなんかが
増え始めた季節。
時間の流れゆくスピードの速さに
ついていけないまま
季節は巡り、身体は衰えていくし
物事の捉え方はだんだん大人びていく。
なのに。
僕の感性だけは遠い夏の日の夕方に置いてきてしまったことに最近気がついた。
別に僕の人生における二十数回の夏の中に
なにかこう、特別な出来事があったわけではない。
むしろなかった。
“人は十代の頃に手に入らなかったものに固執する”という話をどこかで聞いたことがある。
僕が欲しかったもの。
きっとそれは“青春と呼べる日々”だと思う。
そして僕の中の青春の象徴が
“夏”なのだ。
僕はきっとこの先も
有りもしない
手に入ることのない“夏”に、“青春”に
思いを馳せながらお爺さんになって逝くのだろう。
そう。今の僕は紛れもなく。
夏に囚われたおじさんなのだ。
ではここで夏に囚われたおじさん(長いので以降は“夏おじ”と表記する)の生態について
2024年12月の現在判明したあれこれを記しておこう。
①夏おじとは
青空や海、夏祭り、蝉の声やラムネ
入道雲や蚊取り線香などの夏を連想させるモノを樹液のように啜りながら生きている。
真夜中の田舎の公園に生えている木。
あの木に群がってるコガネムシとかと大差ない。
夏おじはコガネムシなのだ。
②夏おじの生態
フィクションの夏は愛せても現実の夏は愛せない。声のデカい人達に怯えながら、夏おじは人間社会に紛れ込もうと今日もどこかでハンカチで汗を拭っている。
もしくは涙を拭っている。コガネムシが人間に成れると思うなよ。
③夏おじの生態
夏を神聖視し、また同時に激しく憎んでいる。
行き場のない感情すべてを“夏そのもの”にぶつけることで終わることのないエネルギーの循環を生み出している。
今後の研究次第で人類のエネルギー問題とか解決してほしい。
④夏おじを見かけたら
彼らの意識でありこころであり、魂と呼べるモノは常にいつかの夏のありもしない町を彷徨っている。
蝉の幼虫ですら長い土の中で成長して
短い大人の時間を精一杯生きるのに、夏おじたちは大人になっても子供のままなのだ。
蝉より虚しい彼らをどうか嗤わずに
見かけたらそっと微笑んであげてほしい。
以上が2024年現在判明している
夏おじについての全容だ。
何故秋も終わり冬が迫るいま、この記事を書いたか。
ごほちゃんは自分で言うのもおかしな話かもしれないが、基本素直に生きている。
自分で思う素直さが周りにどう見えているかはわからないけれど、ごほちゃんは自分ほど
良くも悪くも素直な人間を見たことがない。
その反動なのだろうか、時々馬鹿みたいにひねくれてやりたい時がある。
そういった時は大抵何かしらが上手くいっていないときなのだ。
その原因も自分自身にあることも理解はしていても納得していない。
そんなことすらも夏のせいにしたいのだ。
つまり。
大人になりきれない僕の
精一杯の自分自身の生き方に対する反抗であり
同時に逃避でもあるのだと考えている。
反抗期、終わってないらしい。
10代のあの頃から何も変わっていないようだ。