中原中也の生前発表評論「宮沢賢治の詩」を現代新聞表記で読む/その3
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【前回より続く】
要するに
彼の精神は、感性の新鮮に泣いたのですし、
いよいよ泣こうとしたのです。
つまり彼自身の成句をもってすれば、『聖しののめ』に泣いたのです。
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泣いた
泣こうとした
――というのは
宮沢賢治の死後にこれを書いたからか?
賢治が亡くなったのは
昭和8年(1933年)で
中也がこの「宮沢賢治の詩」を発表したのは
昭和10年(1935年)6月で
昭和9年10月から同10年9月の間に刊行された
「宮沢賢治全集」の紹介のためにでした。
賢治の魂は
感性が新鮮とみなす事象にふれては動いた。
聖しののめは
「春と修羅」所収の詩「原体験舞連」には
生しののめとある「生」を
「聖」と読み換えたもので
中也独自の読みらしい。
写し間違えとか
誤読とかではないでしょう。
◇
そしてその気質としては、
動物よりも植物を、
夏よりも冬を愛し、
――『鋼青』を『苹果』を、午前のみそれを愛したのです。
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気質は、
趣味志向くらい、かな。
賢治の詩世界を
ズバリ。
鋼青(はがね)、
苹果(ひょうか=りんご)
――を引っ張り出して
動物よりも植物
夏よりも冬
午前のみそれを愛した
――と断言しました。
◇
これほど突っ込んだ賢治読みは
昭和初期の詩壇に
ありふれたことではなかったでしょう。
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今回はここまでです。
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「宮沢賢治の詩」の現代新聞表記を
再度、掲出しておきます。
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【現代新聞表記】
※読み易くするために、原作にはない改行(行空き)などを加えてあります。
宮沢賢治の詩
彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分をだってこぼしてはならないとばかり。
それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮かぶままを、――つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。
彼は想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳しつつあったのです。
彼にとって印象というものは、あるいは現識というものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはいられないほど、現識は現識のままで、惚れぼれとさせるものであったのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白出来さえすればよかったのです。
要するに彼の精神は、感性の新鮮に泣いたのですし、いよいよ泣こうとしたのです。つまり彼自身の成句をもってすれば、『聖しののめ』に泣いたのです。
そしてその気質としては、動物よりも植物を、夏よりも冬を愛し、――『鋼青』を『苹果』を、午前のみそれを愛したのです。
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歴史的表記の原作は
青空文庫で読むことができます。