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中原中也の埋もれた名作詩を読み直す その1/思い出
中原中也の全詩を、目次タイトルだけで通観してみましたが、あらためて名作、傑作が多くあることに気づかされます。詩は、それを読んだ時の状況によって、受け止め方は様々に変化するものですが、年齢を重ねるに連れて発見すること多いのは、経験を積んで得た思考や感情の奥行きが深まるからであることがわかります。ここ10年ほど、中原中也の詩から遠ざかっていましたが、もう一度読んでみたく思った詩があり、その詩のほとんどは世間にあまり浸透していないものばかりなので、それを指折り数えてみれば10を越えることがわかりました。それで、それらの詩を、埋もれた名作詩を読むというタイトルで読み返すことにしました。1度は読んだことがある詩ですが、微妙な変更を加えたところもあります。
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第1回は、「在りし日の歌」にある「思い出」です。
長詩「思い出」は
詩集「在りし日の歌」34番詩です。
ポカポカ陽気の春の海を歌います。
◇
思い出
お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか
金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬の端に
やって来たれど金や銀は
なおもとおのき、沖で光った。
岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々していた
しかも工場は、音とてなかった
煉瓦工場に、腰をば据えて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴ってた。
沖の方では波が鳴ろうと、
私はかまわずぼんやりしていた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだった
ポカポカポカポカ暖かだったよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた
鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジッとしていた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけていた
窓の硝子は陽をうけてても
ちっとも暖かそうではなかった
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!
* *
* *
煉瓦工場は、その後廃れて、
煉瓦工場は、死んでしまった
煉瓦工場の、窓も硝子も、
今は毀れていようというもの
煉瓦工場は、廃れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
沖の波は、今も鳴るけど
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は来ない
煉瓦工場に、僕も行かない
嘗て煙を、吐いてた煙突も、
今はぶきみに、ただ立っている
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ
相当ぶきみな、煙突でさえ
今じゃどうさえ、手出しも出来ず
この尨大な、古強者(ふるつわもの)が
時々恨む、その眼は怖い
その眼怖くて、今日も僕は
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯き、案じていれば
僕の胸さえ、波を打つのだ
(「新編中原中也全集 第1巻・詩Ⅰ」より。現代表記に改めました。)
◇
ところが、ご覧のとおり
この詩が歌うのは
廃屋となった煉瓦工場です。
死んでしまった煉瓦工場です。
◇
金や銀にきらめく
海の沖を見にやってきたものの
金や銀は遠のいていきます。
岬の煉瓦工場は静まりかえり
取り残された煉瓦が
赤々とかがやいているばかりでした。
そこに詩人は腰をおろし
ゴールデンバットを取り出す。
ポカポカ陽気のなかで
詩人の瞑想がはじまります。
◇
煉瓦工場の今昔を知る詩人が
いま目前に見るのは
煙をはかない煙突。
煙をはかない煙突が
ただ立っているのほど不気味なものはない、
と歌いますが……。
その煙突でさえ手出しもできない存在が現われます。
◇
この尨大な、古強者(ふるつわもの)――。
その眼は怖い
――と詩(人)は歌います。
いったい、その正体は
なんなのでしょうか?
◇
この詩が
「思い出」であるわけとともに
大きな謎ですが
それがこの詩の味わいどころでもあります。
しばらく考えていると
ぞーっとしてくる怖さがありますね。